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ファン・ジェズス「これからもローマで」

そこはかとなく漂う育ちの良さからか、なぜか1試合で軽率な1ミスという甘ちゃんなアビリティを有しているために、歴代監督からTPOに応じたピンポイントの起用法で使われていたJJことファン・ジェズス。しかし、スモーリングのブレイクとマンチーニの運営推しで、いよいよそれを許さないフォンセカ体制になってからは、出場機会が激減して、ディフランチェスコ監督の就任が発表されたカリアリへの移籍の噂も出始めている。しかし、すこし間の抜けたタイプの方が可愛かったりもして、如月はJJをローマの愛すべきネタ番長だと思っている。今回は、そんなJJの生い立ちや、どのようにヨーロッパにやってきたのかをお伝えしたい。

――どんな子供でしたか?

ジェズス「元気でいたずら好きな子供だったよ。それでいてシャイな一面もあった。両親に聞けば、きっとぼくがいけないことばっかりしていたって言うはずさ。以前、ブラジルに帰省していたとき、息子を叱ったら父と叔父に言われたよ。「あまり怒鳴るんじゃない、その子はお前の子供の頃にそっくりじゃないか!」ってね」

――ブラジルではどこで暮らしていたのでしょうか?

ジェズス「ベロオリゾンテ都で生まれたけど、暮らしていたのは都内から少し離れたベチンという場所だよ。父は一生懸命働いて、ぼくたちに必要なものは全て与えてくれた。裕福な家庭で育ててもらったと思う。その頃、子どもたちは居住区ごとにライバル関係にあって、午前中に勉強して、午後から地元のグラウンドに集まって遊んだ。近所の子供達20人から25人くらいでかくれんぼもしていたよ。このご時世じゃもう考えられないけどね。あとは、クリケットにちょっと似ているtacoという遊びもしてたね。むちゃくちゃ楽しかったね。昨年の夏に家族で遊んでみたんだ。かなり久しぶりで超懐かしかった。勉強はちゃんとしていたよ。でないとサッカーをさせてもらえなかったんだ。そこらへん両親はキッチリしてた」

――サッカー選手になりたいと思いましたか?

ジェズス「サッカーと出会ってからいつもそう思ってた。5歳の頃かな、3つ年上の兄の試合を観に行ったんだ。兄は本当に良い選手だった。周りはみんなサッカーをしていて、誰もが将来プロになると言っていたよ。ぼくは7,8歳くらいで地元のクラブに入った。最初はオフェンシヴなミッドフィルダーとしてプレーしていた。しばらくして、アメリカミネイロ(アメリカFC)のトライアルを受ける機会があった。14歳の頃で、もうすっかり本気でプロを目指そうって思っていた。授業が終わり、ランチを食べてから一人でバスに乗り、最寄りの駅まで行った。そこから練習場までは電車でさらに40分掛かった。そこは芝ではなく土のピッチで、ぼくは14から17歳までそんな生活を送った。父は最初の3回付き添ってくれたね。治安の悪い地区を通過しなくてはならず、チームメイトたちと合流して一緒に通った。でもゴールキーパーの子がその地区の出身だったから、安全が保証できたので安心して通うことができたんだよ」

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