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禅にふれる

先日、永平寺に行ってきました。
 
福井県永平寺町にある曹洞宗の大本山。
700年以上の歴史を誇る由緒ある寺院です。

永平寺には幼い頃に来たことがあります。
ただ、その様子を私ははっきりとは覚えていません。
小学校の授業か何かで傘松閣の天井画をみんなで一緒に見た記憶がおぼろげながらにある…ぐらいです。
 
永平寺に行こうと思ったきっかけは、Youtube。
「中田敦彦のYouTube大学」で「禅」の授業を見て、
「そういえば近くに永平寺があるのに、全然行ってないよな」と思ったからです。
 
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永平寺では「坐禅体験」ができます。
開始時間はあらかじめ設定されていますが、予約無しで参加できます。
 
受付を済ませ所定の時間になると、担当の僧(雲水さんなのかな?わからないけど以降雲水さんで統一します)に案内されます。
吉祥閣の4階に坐禅の部屋があります。
 
坐禅の部屋は、本物の修行場である「僧党」のレプリカとも言うべき作りになっています。
誰もいない薄暗い空間に、整然と並べられた坐蒲(ざふ/坐禅で使う丸型のクッション)。
静けさが支配した部屋は重たい空気が充満し、緊張感がハンパない。
(ちなみに貴重品等は、坐禅の部屋に入る前にロッカーに預けることになります。)
 
一通りの作法を教わり、いざ、単(坐禅をする畳)の上で足を組む。
 
「僅かな時間ですが、大切にお座り下さい」
 
という雲水さんの優しい語り口による言葉が、とても印象的でした。
 
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20分程で坐禅は終わり、トータル50分程の体験は終了となります。
 
禅は「無」である。
と言ったような話をYouTube大学で聞いて臨んだ坐禅体験。
 
僅かながらも実際に体験してみて感じたのは、全く「無」になれない自分です。
 
体験中は本当にいろんなことを考えていました。
「無になろう」と思って、無になれるものではありません。
もっと長い時間座っていたら無になれたのかもしれません。
ただ、僅か20分でも足が痺れてきたり、呼吸を変に意識したり、
体をじっとしていようと気をつけたり…など、きっと長時間座ること自体が無理だったでしょう。
 
しかしながら、私なりに得たものはあります。
 
それは「他者の存在」の大切さ、ありがたさです。
 
体験とは言え、20分程座ることができたのは、
あの空間があって、一緒に座った人たち(この時は私を含めオジサン4人)がいて、
そして警策(肩を叩く平たい棒。TVとかで見たことありますよね)を持って、私たちを見守ってくださった雲水さんがいたからこそ。
 
意思の弱い私を、あの時私を取り巻いていたもの全てが無言でありながらも励ましてくれたから、20分座ることができたのです。
 
坐禅の作法の中に、対面の人との合掌礼拝があります。
「この場にいてくれてありがとう」という気持ちが自然と湧き出てきます。
 
坐禅に限らず、他者がそこにいてくれること、環境が存在することは、本当に尊いことなのだと感じました。
 
それが禅の真髄なのかどうかはわかりません。
多分、違う気もします。
 
でも、私は貴重な体験を通して、他者が存在することのありがたさを知れました。
人間は忘れやすい生き物なので…とりわけ私は忘れやすい人間なので、またしばらく経ってから永平寺に足を運んでみようと思います。

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