「。」のあとに「』」をつけてさらに「。」がつく

 もうすぐ新刊が出る。タイトルは『ぼくらは嘘でつながっている。』。「。」のあとに「』」をつけてさらに「。」がつくとわけがわからない。なぜタイトルに「。」を入れたのか。
 ともかくそういう書名の本がダイヤモンド社から出る。ちなみにダイヤモンド社の社屋は神宮前交差点からほど近い裏原宿の裏にあって、これを明治通りから見れば裏ではなく表になるからおもしろい。
 この本を売ってボロ儲けをするには、ひたすら激しく宣伝をしなければならないのだが、いつもながら自著の宣伝はなかなか客観的になれず、これが他人の本ならよかったのに、いや、いっそ他人に書かせていれば執筆も楽だったし、宣伝だって気軽にできたんじゃないかと後悔している。しかしながら、自分で書いてしまったから、悩みながらも自著の宣伝をしなければならない。
 この本の担当編集は今野良介さんで、いつどこで初めてお目にかかったのかは覚えていないのだけれども、たぶん共通の知人がどこかで何かをした際にご一緒したか、別の共通の知人に紹介されたか、知らない誰かが何らかの形で関わったか、そのどれでもないかのどれかだと思う。
 今野さんが、ダイヤモンド社でおもしろい本をたくさんつくられているのと、知人の田中泰延さんの本をつくられたことは僕も知っていて、あとはかつて陸上部員だったのと、どこかの温泉宿に引きこもったことがあるのと、愛染京子の熱狂的なファンだということくらいしか知らない。愛染京子ではなく、森山愛子のファンだったかもしれないし、あるいは森山愛子側が今野さんの熱狂的なファンだとしても構わない。僕は一切気にしない。
 いつだったか、今野さんの書いた文章を読んでこの人は小説を書く人だ書ける人だなと思い、ちょうどそのころ僕のつくっていた同人誌に寄稿をお願いした。いただいた原稿は僕の予想とはちがって、心情を丁寧に埋め込みながらもどこか乾いたトーンで過去と現在を結ぶおもしろい作品だった。もう少しノスタルジーを湿らせた作品が届くと思っていたので、大いに驚きながらも嬉しい誤算に喜びつつ掲載した。
 たぶんそのあとだと思う。今野さんから「嘘」をテーマに何か書きませんかとのお誘いがあって、僕は絶対にやりたくないこと以外はなんでも引き受けることにしているから、きっと「はいはい、やりますやります」と気軽にお答えしたのだのだろう。ちなみに、絶対にやりたくないこと以外とは、絶対にやりたいことから、できればやりたくないことまでの、わりと幅広い範囲である。
 そのあと今野さんとは何度か会って「嘘」について僕が普段からあれこれ考えていることと、その場で適当にでっち上げたことをグダグダと話していたら、今野さんは毎回僕とのその雑談をちゃんと録音していて、メモに書き起こして送ってくるから、まったくこの人はまじめだなと感心したし、自分の話したことをメモの形で読み直してみると、案外とおもしろいことを言っているから、これは本にしたらいいかもしれないなと、ようやく僕もぼんやりと考え始めた。もちろん、考え始めただけでその段階では特にまだ何もしていない。
 何度か会って話したことをベースに、今野さんから何となくの構成案や企画案や締切などを提案された気がするのだけれども、まだ僕の中で芯になる何かが見つからないので、どうも書く気にはなれずにいた。芯がないまま書くのは読み手に対して不誠実だし、僕自身が気持ち悪いのだ。
 そうこうしているうちに、またしても同人誌をつくることになって、今野さんに再び原稿の依頼をしたら、いったい何を考えているのか、あろうことか今野さんは「嘘本」の執筆依頼文を送ってきたのだった。もちろん僕が今野さんからの依頼を放置したまま、こっちの原稿をぬけぬけと頼んでいるわけだから、そういう寝技に持ち込まれることは予想しておくべきだったのだが脇が甘かった。
 僕がなかなか書く気になれずにいる本をさっさと書けと言わんばかりの依頼文を、僕は結果的に自分で印刷して自分で世間に発表することになるのである。何たる仕打ち。何たる辱め。
 たぶん、この依頼文を皮切りに外堀がどんどん埋められていった気がする。今野さんはわりと本気の企画書を何度も書いてくるし、彼の根回しで音声メディアで嘘について語る羽目にもなった。なによりも最終的に発売時期を決められてしまったのが痛かった。これは痛恨の一撃である。逆算するとここまでに原稿を書き上げないと間に合わないですからねと今野さんはとても勝手なことを言うのだ。で、これまた僕も「はいはい、大丈夫です」と適当なことを言うのだ。こうなると勝手と適当の戦いである。
 いくら適当派の僕とはいえ、さすがに発売時期を決められてしまっては、いつまでものらりくらりと身をかわしているわけにもいかない。とりあえず書くよりほかない。
 これまで今野さんと交わしてきた雑談のメモはたっぷりとあるし、音声メディアで話した内容も手元にはある。これを原稿の形に整えればいいのだ。
 決意を固めて最初の一行を書き始めたところで、すぐに僕の頭にはいくつもの疑問が浮かびあがった。本当にこんな原稿でいいのか。だって嘘の本なんだぞ。いったい嘘の本だと名乗っていながら、ちゃんとした原稿を書いても良いのだろうか。読者に対しても嘘をつくべきなのじゃないだろうか。はたして「嘘」とは何かをこの本そのものを使って伝えなければ中途半端になるんじゃないか。この本の存在が嘘でなければおかしくはないか。
 だったらこの際、目次しかない本でもいいだろう。いや、表紙だけ印刷してあってあとはぜんぶ白紙だって構わないし、まったく見知らぬ他人に書いてもらったっていい。カバーだけ印刷して中身は他の本にしたっていい。いや、どうせやるのなら「出るぞ出るぞ」と言いながら、結局出版されなくてもいいんじゃないか。次から次へと僕の頭には「嘘」をメタ的に扱うためのアプローチが湧き上がってくる。当然、原稿を書く手は止まっている。
 これは一見、「嘘」のコミュニケーションをより先鋭化させるためにあれこれ深く考えているように見せかけているものの、もちろんぜんぶ目の前にある原稿から現実逃避するための行動である。
 設定された締切はもうとっくに過ぎていて、一行ずつコツコツと何かしらの文章を書いてはいるものの、まだ芯が掴めないから焦るのだ。しかもテレビ番組の収録やら、広告の企画やら、出張やらが絶妙なタイミングで飛び込んで、僕の原稿執筆を妨げるのである。しかたがないのである。

せっかくなので、ここで広告の仕事についての宣伝をしておきます。『ぼくらは嘘でつながっている。』の中にも書いたのですが、わけあって僕は自分の関わった仕事を「これをやりました」とあまり公表していません。でも、チラシやポスターや看板のデザインから、商品やサービスのキャッチコピー、新聞雑誌広告、テレビやWEBの映像制作、大規模なイベントの演出まで、わりと何でもやっているので「これは鴨の原稿執筆の妨げになるのでは?」などと気にすることなく気軽にお声がけください。原稿執筆を妨げても構いません。むしろ妨げて欲しい。ちなみに、瞬間的な流行を狙った派手で奇抜なものよりも、商品そのものの本質をまじめにわかりやすく、ちょっとだけおもしろく伝える広告が好きだし、そういうご依頼が多めです。僕はいくつか根本的なアイデアを出すだけで、実際の制作は別の人たちがやる、なんてこともよくありますので「こんなことって可能なの?」という「相談の相談」も大歓迎です。直接のご依頼だけでなく、代理店や広告会社のみなさまからのお誘いも、ぜひお待ちしております。以上、宣伝でした。

 さて、予定の締め切り日からしばらく経ったところで、今野さんに現状の進捗を伝えたところ、わかりましたと新たなスケジュールをつくって送ってくださった。
 僕は同人誌をつくっているので、印刷工程にはかなり詳しい。ギリギリどこまで粘れるかをよく知っているのである。今野さんから届いた新しいスケジュールは、これは印刷工程をよく知っている僕から見ても本当にギリギリで、メールにも「もうバッファはありません」と悲鳴のように書いてある。
 ちなみに、このメールを受け取って僕が口にした第一声は「ふふっ、やっぱりバッファをとっていたんだな」だった。つまり、これまでのスケジュールはギリギリのふりをしつつ、多少の余裕がとられていたのだ。さすがは大手出版者の編集者。抜け目がないのである。だが、こちらだって印刷にはそれなりに詳しいのだ。そう簡単には騙せない。
 さらに、もうそろそろ会社に企画を通して世間に発表するから書名を決めなければならないと言い出す始末である。たいへんな無茶を仰るのである。
 たしかに書名を決めないと営業もできないし、ネット書店への登録もできないから急がなければならないのはわかる。そうこうしていると、今野さんから数点の書名案が送られてきた。選ぶとしたらこれですと僕は答えつつ、でも、と付け加えた。まだもうちょっと考える余地がある気がするんです。僕もいくつか考えてみますと答えて、百案ほど出したら、今野さんもだったら私もと百案ほど追加で出してきたのだった。
 数点の書名案を並べて、さあこの中から決めようと言ったあとに、さらに二百数十の書名案が出てくるのだから笑いそうになる。人間、本気で考えようとすれば、いくらでも考えられるものなのだと思う。
 その中から今野さんが選んだ書名が『ぼくらは嘘でつながっている。』。「。」のあとに「』」をつけてさらに「。」がつくとわけがわからない。なぜタイトルに「。」を入れたのか。
 ともかくこれで書名が決まったのだ。そして書名が決まったとたん、僕は自分がいったい何を書けばいいのかがようやくわかったのだった。どうやら芯が見えてきたようなのである。

この雑文が、はたして書籍の宣伝になっているのかどうかは僕にもよくわからないが無駄に長くなっているので今日はこの辺で終わることにする。

 もともと僕は「この世はすべて幻である」だとか「記憶なんてものは捏造された過去でしかない」なんてことを口にする者で、あらゆることは信用に足らないと感じている。そんなことを、つまり僕の中だけに存在する世界について書き連ねようと思っていたのだが、この書名が決まったことで、そうではなく、もっと人と人との関係について書こうと思ったのだ。根っこにある考え方は同じなのだけれども、その意識を自分の内側へ向けるのではなく他人との関わりかたに向けることにしたのである。
 『ぼくらは嘘でつながっている。』この書名を手にした僕は、人と嘘との関係について書けばいいとわかったのだった。
 現代を生きる人々の悩みのほとんどは人間関係にあるらしい。どうして僕たちは人間関係に悩むのか、なぜ自分の気持ちをわかってもらえないのか、人間関係をどのように捉えれば悩みが解消されるのか。その考え方を書けばいい。
 これでようやく書くべきことがわかった。だがしかし問題はもうとっくに締切を過ぎていることである。発売は九月に設定されているのだが既に七月の一週目が終わろうとしている。逆算するとかなりヤバい状態なのだが、よくよく考えてみれば、やばいのは僕ではなく出版社と編集者だ。そう思えば気が楽になる。とはいえ、いちおうやれるだけはやってみようと、僕は猛然と原稿を書き始めたのだった。
 何でもそうだが、頭の中にあるものと実際に書かれた文章との間には、けっこうな乖離があるものだという話を書いて、これを読み返してみると、僕の頭の中にあったものと実際に書かれた原稿とにはかなりの乖離がある。どういえばいいのか。まじめなのだ。いや、まじめでいいんだけど、僕が書きたい嘘の本は、単に嘘についてあれこれ解説するのではなく、嘘そのものを体現する本であってほしいのだ。
 そのために必要なのは読者を信じることである。必要がないのは一貫性や整合性である。僕たちは嘘でつながっているのだから、著者と読者だって嘘でつながっていなければならないはずだ。
 僕の書いた原稿を読んだ今野さんは、その意図がわかったようで「ふつう、こういう部分はそろえますが、これはあえてこうしたんですね?」と反応するから面白くて、僕はさらにゴールラインを遠くへ設定する。ここまでやってもいいだろうか、これをやったら怒られないだろうか。いや、よく考えてみれば、怒られるのは僕ではなく出版社と編集者だ。そう思えば気が楽になる。だったら、わりと無茶をしてもいいだろう。本当にダメならさすがに今野さんだって、ダメと言うに違いない。
 けっきょく今野さんは、ダメと言わなかった。わりと無茶をしたのに、ダメと言わなかったのだ。

「ところで帯コピーは誰に頼みましょうか?」今野さんからの連絡はいつも突然のように思えるが、たぶん以前から聞かれていたのだろう。まったく耳に入っていなかった僕も悪いが「数日中に決めてデザイナーに渡さないと間に合いません」などという今野さんも無茶である。
 とりあえず誰にしましょうかねえ。僕は知恵を絞った。僕だってたまには真剣に考えるのである。これは嘘の本だから、だったら国会で最も嘘をついた男、安倍晋三元総理がいいんじゃないですか。あ、霊言本を量産する大川隆法でもいいんじゃないですか?
「ダメです」さすがの今野さんからもダメが出た。
 さらにあれこれ考えて、実は以前から候補に上がっていた人にお願いすることにした。さっそく依頼してみると、わかりましたと色良い返事をいただけた。ああ、よかった。これで帯コピーもなんとか間に合うはずだ。ところがである。それから数日後「本当に申しわけない」というお返事が届くことになるのである。どうして帯のコメントをいただけないのか、その理由はものすごくよくわかったので、これはもうしかたがない。問題は時間がないことである。
「さてどうしましょう」どうやら今野さんは頭を抱えているようだったし、僕は僕で赤字を入れたゲラを今野さんに渡す必要があったので、じゃあ行っちゃうかと今野さんの家に向かって車を走らせることにした。
 やっぱり安倍晋三元総理(まだご存命だったのです)か大川隆法さんじゃないのか。そんなことを考えながら車を走らせているうちに、忘れていないか、これは嘘の本なのだぞという思いが僕の頭の中をふとよぎっていた。
 今野さんの自宅近所の公園でゲラを渡し、僕はふと口にした。「帯のコメントなんですけど、これ、浅生鴨さんに依頼してみましょうか?」

この雑文が、はたして書籍の宣伝になっているのかどうかは僕にもよくわからないが無駄に長くなっているので今日はこの辺で終わることにする。

3

 さすがの今野さんも、こいつ何をバカなことを言い出したんだと言いたげな顔つきになった。
「著者が自分で帯コメントを書いたっていいでしょ?」こういうとき僕はしつこい。どうせやるなら、とことんやったほうがおもしろいじゃないか。それに、自分で自分の本を読んだ感想を正直に書けば、嘘偽りのないコメントになるのだから。今野さんはベンチに座って少しだけ考え込んだ。「いや、それはありかもしれませんね」ポツリと言う。「もう、書き終えたわけですから、一人の読み手としてコメントを書いてもらえばいいんですよね」自分で自分を納得させるような口調だ。「そうですよ! 僕はもう一人の読み手になって、客観的にコメント書きますよ! 広告のコピーと同じことです」
「うん、いいかもしれない」今野さんは大きく頷いたあと、あらためて首を捻った「いやあ、会社が許してくれるかなあ」。
 それは会社と今野さんの問題であって、僕には何の関係もない。僕はおもしろければそれでいいのだ。「朝までにいくつか帯コメントを書きますよ」僕はそう言って帰宅の途についた。帰りの車中でいくつかのコメントを考え、スマホに録音する。これでいいのだ。そうするうちに、さらにもう一つバカなことを思いついた。この本は、はたして僕が書く必要があるのだろうか。僕ではないほかの誰かが書いた文章のほうが、客観的に読めるんじゃないだろうか。
「今野さん。あと二つだけ文章を足したいんです。〝はじめに〟の中と全体の最後に一つずつ」「え? まだ足すんですか?」「あとこの二文さえ足せば、この本は僕たちと読者を嘘でつないでくれます」僕は帯コメントとともに、追加の二文を送った。
「これを足すんですか!?」「はい」「確かにこれは」「ね、おもしろいでしょ?」「おもしろいです。でも、これ読者にわかるのかどうか」「いいんですよ。わからなくても。ここまでやったんだから、やっちまいましょう」「やっちまいますか」
 こうして、まさかの二文が足され、遙かなる時を超えた奇妙な本の中身が完成した。さらにこの本の立ち位置を確定するための、ダメ押しの一文を奥付の前に追加する。
「いやあ、やるだけやりましたねぇ」僕はいたって呑気だが「私は誤解した読者からのクレームが怖いです」と今野さんはまっとうなことを言うのである。だが、しかたがない。クレームは出版社と編集者が対応すればいいことで、僕には何の関係の無い。僕に発注した時点でこうなることは明白だったのだ。




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