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同じときに同じ場所で

illustrated by スミタ2021 @good_god_gold

 ホワイトノイズが耳の周りに薄らと張りついた霞だとすれば、突然飛び込んでくるピンクノイズは強引にかさぶたを剥がす冷たいピンセットだ。耳元だけでなく心までが痛みにざわつく。
 サハラはインカムの小さなコンソールに指を触れ、少しでもノイズが減るよう減帯装置を起動したが空間通信の変調によるデジタルノイズまでは取り除くことができなかった。
「現在地は?」
 ガリガリと耳障りなノイズに途切れながらも、コマンドの無味乾燥な声がサハラの耳元で増幅される。いつも一方的に指令が届くだけで一度も会ったことはないが、まったく感情の入らないこの口調から判断するならば、おそらく人造思考なのだろう。シリコン内の住人だとすれば単なるデータの構造物に過ぎないから、永久に会うこともなさそうだ。
 サハラは手早く測位システムのデータを確認し、数値だけを口頭で伝えた。ここから図表を送るのは手間なのだ。
 今、彼が身を潜めているのはシンカヤンバッドから八十四キロ南西の地点、宇宙座標ビットで言えば9F0FA+60D2にある洞窟の入り口付近だ。
「本当にここなのか?」
 気配はまるで感じられない。ガボヌス大陸の中でもこのあたりは最も開発が遅れている地域だ。人類が殆ど入植していない地域に擬態者が現れるとは、サハラのこれまでの経験からはあまり考えられなかった。
「そこで問題はない。ミオノスコープの計算通りならば数分から十数分以内に出現するはずだ」
 しかし。
 前兆がないのだ。隣接次元から擬態者が訪れるときには必ず空間に何らかの揺らぎが生じるものだが、これまでのところそういった前兆はまるで見られなかった。
「まるで前兆がないんだぞ。計算が違ってるってことは?」
「ありえない。それに、リターナーは」
「一切の疑問を持たなくていい、だろ」
 コマンドが言い終わる前にサハラが声に出した。
「その通りだ。君は指令に従えばそれでいい」
 コマンドは必要以上の情報をサハラに伝えるつもりなどないのだ。
 サハラは初等機関での教育を終えたあと、すぐに防次局のトライアルを受けてリターナーになったから、今年でもう六年目になる。リターナーの主な任務は擬態者を捕獲し元の次元へ送り返すことだ。

 擬態者。それは他次元からの訪問者である。
 隣り合う次元どうしは、特定のタイミングで時間の流れを分離した微差のパラレルワールドに過ぎないため、世界の構造はほとんど何も変わらない。
 しかし、さらに隣、そしてまたその隣と次元がずれていくうちに、やがては時間の流れも、生物の進化課程も、文明や技術の発達程度も、あるいは星々の運行でさえも少しずつ異なっていく。何万ディムも離れた次元どうしになれば、もはや完全な異世界となる。

 それらの多次元が今は一つのチャンネルでつながっているため、遥か遠くの次元から人類とはまるで姿形の違う異形の生物がときおりこの次元へもやって来るのだ。
 おそらく彼らのことも人類と呼ぶべきなのだろうが、あまりにもこの次元に暮らす人類とはかけ離れた姿を持つ生物を人類と呼ぶには抵抗があり、やがて誰彼もが異次元からの来訪者を擬態者と呼称するようになっていた。

「さあて、いったいどんな擬態者がやって来るのかねぇ」
 できるだけコミュニケーションを取りやすい形態であればサハラとしてはありがたい。生理的嫌悪感を覚えるような相手とは、やはりあまり関わり合いになりたくないのだ。
「リターナーは一切の疑問を持たなくて良い」
 コマンドは繰り返した。
「わかってるさ」
 疑問は持たなくとも良いが、擬態者の知識は必要だ。一見しただけで、どの次元から訪れた者なのかを見極め、ときには説得し、ときには強硬手段を用いて元の次元へ送り返す。
 中には別次元で重大犯罪を犯してこの次元へ逃げ込んで来る者や、最初からこの次元を侵略しようと考えて訪れる暴力的な擬態者もいるが、その場合には処刑を専門とするイレーサーと交代する。リターナーはあくまでも元の次元へ帰還させるのが役割なのだ。
「ディムホールさえうまく閉じられたら、こんなやっかいな仕事もなくなるのに」
「いくら閉じても隣接次元がすぐに新設してしまうのだ」
 サハラの独り言に珍しくコマンドが応じた。
 たとえここでディムホールを閉じても、隣の次元が時間差でここと同じようにディムホールを設置したあと、ここと同じように今度はそれを閉じる。だが、さらにまたその隣の次元が時間差でディムホールを設置し、やがて閉じる。こうやっていつまでもディムホールの設置と閉鎖が永久に続いていく。
「わかってるよ、そんなことは」
 左手に巻きつけたクロノで時流速度を確認したあと、サハラはレベラーを洞窟の内部へ向ける。擬態者が出現する前兆はまだ見られないままだった。

 すべては二百年前に端を発する。
 二二世紀から全方位に展開された人類の宇宙開発は、二七世紀末に終焉銀河にある惑星ルスランBへの入植を始めたことをきっかけに大混乱を来すことになった。
 この惑星では一定の周期で隣接次元と位相が重なるため、その間に他次元へ移動することができたのだ。それまで理論上の仮説でしかなかった隣接次元が実際に存在すると知った人類は、現存空間での勢力拡大だけでなく別次元への進出も図り始めた。
 それは同時に、隣り合う次元に住むもう一つの人類も別次元への勢力拡大を開始したことを意味する。
「我々が向こうへ行けば、そのぶん彼らがさらに隣の次元へ行くことになる。次元移動は慎重に行わなければ、最終的にはどうなるか予測もつかない」
 理論次元学者たちは警告を繰り返したが、拡大できる余地があればどこまでも勢力を拡大するのが人類に埋め込まれた本能らしく、彼らの警告はそうした欲望の前にあっさりと無視されたのだった。
 当初、隣接次元への出入り口を固定することは不可能とされたが、やがて国際宇宙軍と開拓技術団との共同研究によって一つの画期的な技術が開発された。
 それがモーメント制御式超磁場だ。
 中性子星内に存在する全ての電子を同一スピンに揃えることで生み出される膨大な磁気モーメントの集合体は、クエンチを起こさずに数百億テスラの超磁場を誕生させる。この超磁場を利用して空間位相のずれを補正し、時間ごとに遷移する周期的な重なりを恒常的な揺らぎへ強制的に変化させればいい。この揺らぎこそが次元間の通路、ディムホールとなる。
「ここで電子のスピンを一定方向に固定すれば、数百億光年の彼方に存在する別の中性子星の電子が、全て逆方向にスピンをしているはずだ。それが宇宙にもたらす長期的な影響は判然としない。あまりにも危険だ」
 宇宙素子論学者たちからも繰り返し警告があったが、それらもまた欲望の前にはあっさりと無視されたのだった。
「人類は隣接次元への移動手段を獲得した。今後は別次元への入植も行う」
 開拓技術団の議長は各国首脳を集めた会議で高らかにそう宣言した。
 しかし、学者たちの警告通り、次元間の往来は原始的なタイムパラドックスさえも揺るがすことになった。

 隣の次元に自分とまったく同じ人間が存在するだけでなく、この次元では死んだ者が隣の次元では生きていたり、あるいはこの次元では生きている者がさらに隣の次元では生まれてすぐに死んだことになっていたりするのだ。
 存在と非存在の輻輳が発生すれば宇宙全体を巻き込んだ対消滅が置きかねない。次元間の往来は時間の法則を破壊し、宇宙のバランスを危うくする。
 危機感を覚えた開拓技術団は超磁場を解放し、ディムホールを閉じようとしたが、もはやそれは不可能になっていた。

 この次元の人類がディムホールを設置したことをきっかけに生まれたパラレルワールドは、それぞれの次元世界が僅かずつの時差でディムホールを設置し、その隣の次元への扉を開く。その無限連鎖がどこまでも続くのだ。もう後戻りはできない。
 時間に押し出されるかのように、隣接する次元に暮らす人類が隣へ、さらに隣へと扉を開いていくうちに、ついには全ての多次元パラレル世界を無限の揺らぎが貫通し、今ではそれぞれの次元世界がいつでもディムホールでつながることができる。
「一度でもどこかの次元で行われた事象は、必ず他の次元に連鎖する」
 サハラはうんざりした口調で呟いた。
 まったく面倒な話だが、全てがつながっているのだからしかたがない。
 こうして二七世紀末に始まった次元の混乱は、それから二百年近く経ってもまだ納まっていなかった。

 パキ。
 不意に背後で枯れ草を踏む音が耳に入った。人の気配だ。サハラは素早く振り返りフォニックの銃口を向ける。
「おい待てよ、俺だ、メシオだ」
 慌てて両手を挙げたのは顔見知りのイレーサーだった。カジュアルな格好をしているサハラとは違って、ヘルメットから靴に至るまで完全な軍用装備をまとい、顔には迷彩の炭が塗られている。
「メシオ? なんであんたが?」
「本部からの指令だよ。役割交代だ」
 そう言ってサハラに手招きをした。
「俺は聞いていないぞ」
 サハラは首を振り、片手でメシオを制したままインカムでコマンドを呼び出した。
「何事だ?」コマンドの無味乾燥な声が耳の中に響く。
「ここにイレーサーが来ているんだが、どういうことなんだ。ターゲットは帰還させるんじゃないのか」
「無論その予定だ。殺害せずに元の次元へ送り返す」
 それがリターナーの仕事だ。
「じゃあ、なんでイレーサーがいるんだ。こいつは殺す気満々だぞ」
 メシオは黙ったまま嬉しそうに大きく頷き、胸のバッジを指差した。
「共有情報に混乱があるようだな。しばらく待て。結論を用意する。一つでいいな?」
 ガリと雑音を残してコマンドの通信が切れた。
「どうだ? 代打の登場なんだろ?」
「まだ決まっていない」
「なんだよ。俺に任せりゃ一発で仕留めてやるのに」
「ちょっと待て」
 サハラはメシオを遮り、洞窟に向き直った。いつしかブーンと唸るような低音がサハラの腹の奥を振動させている。
「あそこだ」洞窟の直ぐ外を指差す。スコープを使わなくとも空間の歪みがはっきりと肉眼で見て取れた。
「ふん。おいでなすったか」メシオが腰の装備を外す。
 サハラもフォニックのグリップを握り直し、もう一方の手で台座の尻にあるノブを認証モードに切り替えた。
 洞窟前の空間が激しく歪み、向こう側の風景が逆さまになる。その瞬間、ギラリと青銀に光る塊が出現し、そのまま地面に転がった。
 塊は惑星の重力に逆らうことができないようで、ブヨブヨとした粘り気のある液体が地面の上でトロトロと広がり、それでも半径二メートルほどの円形になったところで止まった。どうやらゾル状のコロイド体らしい。
 粘性生物か。
 サハラはレベラーでディム値を確認した。
「二億だと」目を疑った。測定値の限界に近い。
 これまでのサハラが持つ知識を遥かに上回る、超遠次元からの擬態者だった。おそらく観測史上初めての存在だ。
 やがて、ブヨブヨとした粘液の塊がときおり青く光りながら高速で移動を始めると、その中心に硬質な赤い塊が丸く収まっていることがわかった。
 擬態者は、二人から一メートルほど離れたところで急に動きを止めた。ちぎれた身体の一部が跳ね飛んでサハラの服についた。慌てて指先で拭い取ろうとすると、妙にねっとりした感触が指先を包む。
 擬態者は動きを止めたまま、こちらの様子をじっと伺っているようだった。赤い塊が本体なのだろう。どうやら攻撃する意図はなさそうだ。
「わはは。何だこりゃ。あんかけの中にいるカニみてぇだな」
 メシオは笑ったがサハラは応じなかった。
 いくら二億ディムも離れた次元の存在だとはいえ、本当にこれを人類だと言えるのだろうか。頭では理解していても生理的な嫌悪感を抑えることは難しい。
「撃てと指令が出た」一歩前に出たメシオがパーティキュラーのノブを摘まんで放出ゲージを最大出力に上げる。
「待ってくれ。交渉させてくれ。これは俺の仕事だ」
 サハラはその前に立ち塞がり両腕を広げた。
「断る。こっちはこっちで指令を受けているんだ」
「二分でいい。それで帰らなければ撃てばいいだろ」
「はん。こんな化け物と交渉がしたいとは、リターナーってのはマジで頭がおかしいんだな。さっさとこいつをぶち込んで分子レベルに解体すればいいじゃねぇか」
「彼らだって人類だ」
 異形だからといって、それだけを理由に排除してはいけない。一度でもどこかの次元で行われた事象は必ず他の次元に連鎖する。だとすれば俺たちが異形の者として排除される側に回ることだってありうるのだ。
「人類じゃねぇ、ただの化け物だよ。だが二分後にはもう存在しねぇ」
 そう言ってメシオはパーティキュラーの先端を擬態者に向けた。

——オレを殺すのか—— 
 突然、サハラの脳内にメッセージが伝わった。音が聞こえるのではなく、文字が見えるのでもなく、いきなり抽象的な意味が脳の中に伝わってくる。
「これはいったい」サハラはメシオに顔を向けた。
 どうやらメシオにも同じ意味が伝わっているようで、目が飛び出るほど驚いた顔でサハラを見つめている。
「こんなやり方でコミュニケーションをする生き物がいるなんて」
 見た目とは違って、あまりにも洗練されたコミュニケーション方法にサハラは圧倒された。これなら翻訳機を使った言語交換よりも遥かに直接共振できる。
——殺すな。オレを殺せば、他の次元でも誰かがオレを殺す。あるいは他の次元のオレが誰かを殺す——
「一度発生した事象は、別の次元へ連鎖していく。そういうことだな」
 サハラは大きく頷いた。人類がディムホールをつくってしまったときと同じだ。何らかの事象が発生した瞬間に、そこから新たなパラレルワールドが枝分かれを始め、一度そうなればもう事象が起きる前の世界には戻せない。
——そのとおり。オレを殺せば、オレを殺す前の世界は消滅する——
「ふん。つまらねえ言いわけだ。死にたくなきゃ、何だって言うだろうさ」メシオが冷ややかに言う。
「いいか、メシオ。ここであんたが撃てば、隣の次元のあんたも撃つ。その隣の次元でもあんたは撃つ。そうやって永久に撃ち続けることになる。それでも撃つのか?」
 サハラも冷静な声を出した。
「そりゃそうさ。俺はイレーサーだからな。殺すのが仕事なんだから撃つのは当然のことだろ」そう言って肩をすくめる。
「けれども」サハラはゆっくりと首を傾けた。
「数万ディムも離れた次元になれば、あんたも撃っていないだろう。別の行動をとっているはずだ」
——そう。多次元は少しずつずれていく差異の積み重ねだ。離れれば離れるほどずれは大きくなっていく——
 再び、擬態者の脳から直接意味が流れ込んでくる。
——だが、そこにあるのは差異だけではない。今ここに、同じときに、同じ場所に存在する個別のオレたちには、おそらく次元を超えて何らかのつながりがあるのだ——
「同じときに、同じ場所に存在する個別」サハラは声に出した。
 ああ、そうだ。それこそが多次元世界なんだ。サハラは首をあげてまっすぐにメシオを見つめた。
 こうやって次元を超えて重なっている俺たちには、きっと重なるだけの理由があるはずだ。もしかすると、この擬態者は遠い次元の先にいる俺自身やメシオなのかも知れない。あるいは。
——それぞれの世界はまったく関係が無いように見えるが、オレたちは全て次元を超えてつながっているのだ。だからこの——
 バシャンッ。
 いきなり落雷にも似た激しい音があたりを埋めた。それはサハラの脳内ではなく現実に鳴り響いた音だった。
 メシオの手にしたパーティキュラーからまっすぐに打ち出された光束が擬態者を包み込む。球状になった光束は緑色に輝く目映い煌めきを見せたあと、中央の一点へ向かって一気に収縮した。擬態者は分子レベルに分解され、すでにその存在を失っている。
 メシオが打撃波を放ったのだった。あとには球状に抉れた地面が残されただけだ。
「あああ」サハラは絶望的な声を上げた。
 同じときに、同じ場所に存在する個別。もしも、ここではないどこかにいたとしたなら、俺はこんな声を上げずに済んだかも知れない。サハラはそう思った。

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