ノリのよい音
渡師伊輪は内ポケットから祝儀袋を取り出し、受付係に渡した。
「こちらにお名前をお願いします」
若い女性の受付係はおそらく新婦の関係者なのだろう。こういう場で派手にもならず地味にもならない服を上手く着こなしていることにいつも感心する。なんでも礼服で誤魔化している渡師とは大違いだ。
名前と住所を丁寧に書き込んでペンを置く。
「ありがとうございます。開宴まで今しばらくお待ちください」
受付係から手渡された席次表と白い封筒を持って会場に入ると、三十ほどあるテーブルには、まだほとんど客がついていなかった。
みんなロビーで談笑しているのだ。
取引先の社長から娘の結婚式にと声をかけられたのは、人を紹介してやろうという心遣いなのだろうし、それはこの地方へ赴任してまもない渡師にとっては、とてもありがたい話なのだが、職場で招待されたのは渡師だけで、ここに顔見知りは一人もいない。知り合いが一人もいない場はさすがに心許なく、長くロビーにいる気にはなれなかった。
渡師は席次表を覗き込みながら自分の席を探す。
大広間の高い天井に取り付けられたスピーカーからは、耳覚えのあるクラシックが流れ、正面のスクリーンには式次第が表示されていた。
なんとか自分の席を見つけて腰を下ろすと、ようやくひと息つく。
テーブルに掛かった薄いベージュ色のクロスは金糸で縁取られ、その上には白い皿と銀色のカトラリー、そして白地に銀色の文字で名前の書かれたプレートが置かれていた。どれもシンプルで清潔感に溢れている。
八人掛けの丸テーブルにはまだ渡師しか座っていなかった。席次表を見ると、このテーブルの客には新婦父友人とあるから、社長の取引相手を集めたのだろう。
スマホで二、三通ほどメールのやりとりをしたところで、手持ち無沙汰になった。
とりあえず先ほど渡された白い封筒の中を覗いてみると、薄く黒い紙のようなものが数枚入っているのが見えた。
「これはなんだろう」指先で摘まみ、封筒から引っ張り出す。
海苔だった。
家庭でおにぎりなどに使われる、短冊状の海苔が八枚入っている。
「なんで海苔が?」
困惑しつつ、渡師は首を伸ばして一つ向こう側のテーブルに視線をやった。
ちょうど席に着いたばかりの女性が、封筒から取り出した海苔をネームプレートの横へ順に並べ始めている様子が目に入った。
「どういうことだ?」
反対側のテーブルを見ると、やはり客たちはみんな同じようにネームプレートの横に八枚の海苔をきれいに並べていた。
「これを並べるのか?」
もちろん同じ国とはいえ、冠婚葬祭のしきたりは地方によってずいぶん異なるものだし、転勤を繰り返している渡師もそれくらいのことはわかっている。が、それにしても結婚式で海苔を並べるなんて話は聞いたことがなかった。
「どうもどうも初めまして」
すでにロビーで酔ったと思しき年配男性が、向かい側の椅子に腰を下ろした。
「いやあ、こりゃまた立派な式ですなあ。さすがですな」
「ええ。本当に立派ですね」
相手の立場がわからないので、ここは適当な相槌を打っておくのが無難だ。
「ですなぁ」
そう言って男性は封筒を覗き込み、海苔をまとめて引っ張り出した。
「ほう、これはこれは」
何かに感心しながらネームプレートの横にきれいに並べていく。
「ほら。八枚ですよ。いやあ八枚とはねぇ。さすがですな」
「はあ」
「ん?」男性が怪訝な顔をした。
「おたくさんは海苔を並べないんですか?」
「あ、いえ」
渡師は慌てて封筒から海苔を引き出した。
「実は転勤してきたばかりで、こちらの慣習をあまり存じておらず」
申しわけなさそうな顔で頭を下げた。
「お恥ずかしい限りです」
「いやいやいや、確かにこれは余所ではあまり見ませんでしょうから」
「恐れ入ります」もう一度頭を下げながら渡師は席次表にさっと目を通す。
新婦父友人、作家・丸古三千男様。
どこかで聞いたことのある名前だがはっきりと思い出せない。
ともかく丸古のまねをして、渡師も海苔を並べることにした。
「ああ、それには順番があるんですよ」
渡師の戸惑った表情を見て取ったのか、丸古は自分の海苔を指差して並べ方の説明を始めた。
「まず外側に置いて、その次に一番端の、おお、可児社長。お久しぶりですな」
渡師の後ろに向かって手を振った。
「これは丸古先生。連載のほうはいかがですか」
「いやいやいや。なにせ短編を三百本ですからな。もうたいへんでたいへんで。この企画を持ってきた編集者を簀巻きにして宇宙に送り込んでやりたいくらいですな」
「あはははは。またまた先生、それを頼んだのうちの青谷凪じゃないですか」
「いやいや、そうでしたな。がはははははは」
年輩者二人の雑談を耳に入れつつ、渡師はどうにか海苔を並べ終えた。
気がつけば、いつしかテーブル席も大半が客で埋まり、スクリーン横に置かれたマイクスタンドの前に蝶ネクタイをつけた司会者らしい男性が立っている。
「ただいまより」
お馴染みの挨拶で披露宴が始まった。
「それでは新郎新婦の入場です。みなさまノリの良い音をお願いいたします」
司会の言葉を聞いて、丸古はテーブルの上から海苔を一枚拾い上げ指に挟んだ。周りの客もみんな海苔を指に挟んで持っている。渡師も急いで海苔を一枚摘まみ上げ、見よう見まねでほかの客と同じように右手の人差し指と親指で持つ。
音楽と共に照明がすっと落ち、ステージの上手にスポットライトが当てられた。
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