休暇の終りに
まもなく長い連休が終わる。木寺は上着のポケットから小さな紙片を取り出し飛行機の便名と座席番号を確認した。ゲート前は人とキャリーバックでごった返していて、すべてのベンチが埋まっている。しかたがない。そういう時期なのだ。近くの喫茶コーナーから漂ってきたカレーの香りが木寺の腹を鳴らした。
コンコースに設置されたテレビには高速道路の渋滞が映し出されている。
「車にしなくてよかったな」
実家から空港まではそれなりに距離があるし、戻ってから自宅までの移動を考えると気が滅入るが、それでもあの渋滞に巻き込まれるのだけは勘弁してほしかった。
不意にテレビの映像が鉄道の情報に切り替わった。特急の乗車率は二百十パーセントだとテロップで表示されている。この手の数字を見るたびに木寺はいつも不思議に思う。定員を超えた数の客を乗せているのだろうか。安全面はどうなっているのだろう。車でも飛行機でもシートベルトの着用が義務づけられているのに、あの猛スピードで走る列車にはそもそもシートベルトがついていないのだ。
しばらく画面を見ているうちに空港内にも人がどんどん溢れ始めた。あまりにも人が多い。もはやコンコース内では収まらず、階段から空港外へ人の列が続いているようだ。どこか異様な光景だった。
ようやく頭上からアナウンスが流れると、ぐったりとベンチに座っていた人たちはホッと安堵した表情で立ち上がり、ぞろぞろとゲートへ向かい始めた。木寺も土産物を入れた小さな紙袋を手に持って人の波に乗る。人の重みでボーディングブリッジがキュシキュシと音を立てて揺れていた。消毒にでも使ったのか、アルコールの匂いがツンと鼻をつく。
機内に入って棚に紙袋を入れようとしたが、座席付近の棚はどれも戸が閉まらないのではと思うほど荷物が詰め込まれている。これだけ混雑しているのだから、キャリーバッグは預ければいいのにと内心で呟く。
棚へ荷物を入れることは諦めて、木寺はとりあえず席に座ると前の座席の下へ紙袋を強引に押し込み、シートベルトを締めた。三人掛けの真ん中席。両側から挟まれることになるが、それもしかたがない。前方からは次々に客が乗り込んできては、荷物を棚に入れられずにウロウロとしていた。
——前の座席の足元へお入れください——
——ご自分の座席以外の棚もご利用ください——
機内アナウンスが何度も流れるが、そもそも客が多い上に、それぞれが持ち込んでいる手荷物が大きいから入りきるはずもない。
混雑が嫌だから飛行機を選んだのにこんなに混むとは。木寺はワイヤレスイヤホンを耳に入れるとスマートフォンを取り出してニュースサイトを立ち上げた。飛行機でさえこの有様なのだから、高速道路や鉄道はもっと酷いことになっているに違いない。
高速道路が映っていた。どうやら車はまったく動いていないようだった。どの車も開け放たれた窓から運転手が顔を出している。
「うおぉぉぉん」
「わおおおぉぉぉぉ」
運転手たちが空に向かって遠吠えをしていた。中には車から降りて叫んでいる者もいる。
「ひゃおぉぉぉぉん」
「ぶひょぉぉぉ」
木寺はきゅいと口元を歪めると、指先で画面をスワイプして鉄道のニュースに切り替えた。
「うきゃきゃきゃきゃ」
「みょみょみょみょぉぉん」
列車から溢れた人たちがホームで、改札で、階段で、通路で口々に奇妙な声を上げている。
「びゅははははぁぁ」
「ぐへへへへへぇぇぇぇ」
画面で見る限り、駅の構内だけでなく周囲の一般道でもかなりの人たちが奇妙な叫び声を上げているようだった。
機体の前方からはさらに客が入って来たらしく、通路を進んでいた人たちは座っている乗客の上へ通路から押し出されるように上半身を被せてくる。
急にぐいっと体を押されて木寺は手にしていたスマートフォンを足元へ落とした。
「すみません」
隣の席の中年男性が申しわけなさそうにこちらに首を回して軽く頭を下げる。通路側に座る彼は乗客からかなりの力で押されているようだった。
「うぐっ」
男性の体が木寺に強く押しつけられた。耐えきれず、そのまま木寺の体が窓際の女性へ押しつけられる。
「ごめんなさい」
「うおぉぉぉぉぉ」
女性がいきなり遠吠えを始めた。それを合図に機内のあちらこちらで奇妙な声が上がり始める。
「むひょひょぉぉおお」
「じゅじゅじゅぅぅ」
「けっけっけっけっけっけぇぇ」
叫び声は収まるどころかどんどん広がり、今や殆どの乗客が奇妙な声を出していた。こうなるともう止められない。
木寺はうんざりしたように眉根を寄せ、通路側の男性にチラリと目をやった。彼もこちらを見て静かに頷く。どうやら彼は叫ばないらしい。
「ついにここでも始まってしまいましたね」
仲間を求めるように声をかけた。
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