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俺と布団

illustrated by スミタ2024 @good_god_gold

 いつもより数時間も早く目が覚めたのは、妙な寝苦しさのせいだった。窓の外はまだ暗く、表通りを走るトラックの音が微かに聞こえてくるだけで、それ以外には何の音もしなかった。
 木寺は横になったまま、記憶の隙間へ落ち込んでいく夢の断片を何とかすくい上げようと、ぼんやりとした頭でしばらく追いかけたが、いつものように朧気な気配だけを残して夢はどこか深いところへ消えていった。
 もはや何一つ思い出せないものの、悪夢を見たという感覚だけは残っていた。それもひどい悪夢だ。
 気づけば全身にぐっしょりと汗をかいている。ねっとりと身体にまとわりつく生温かな湿り気が気持ち悪く、木寺は布団を除けてゆっくり半身を起こそうとした。
「む」
 布団は動かなかった。身体を包み込んだまましっかりとその形を保っている。どうやら掛け布団と敷き布団がくっついて寝袋状になっているようだった
「んんっ」
 もう一度、こんどはそれなりの力を込めて掛け布団を除けようとしたが、やはり布団は動かなかった。布団が寝袋状になったのであれば、掛け布団だけを離せないのは不思議ではないが、木寺としてはとにかく布団から出たかった。
 手足を大きく伸ばして寝袋を広げようと試みると、その動きに応じて布団も延びるのだが、すぐに縮んでぎゅっと木寺の身体を締め付けるように張りついてくる。そうやって木寺は何度も抜け出そうと藻掻いたが、どうやっても布団から出ることができなかった。
「なんで出られないんだ」
 激しく動いたせいで布団の中の温度が上がり、ねっとりとした湿気がますますひどくなった。布団から出ているのは頭だけで、額には汗の玉が浮かんでいた。
 身動きが取れない。しばらくじっとするよりほかなかった。
 どれほど時間が経ったのか、やがて、いつしか不快感がなくなっていることに木寺は気づいた。それどころか妙な気持ちよさがあった。このまま布団の中にいてもいいとさえ、木寺は考え始めていた。
 人は慣れるものだからな。
 と、木寺は思った。どれほど普段と異なる環境におかれても、人はすぐに慣れる。そういうものだ。
 寒い日に冷たいプールへ飛び込むと、最初は震え上がり身体を強張らせるが、やがて冷たさは消えて、むしろ暖かく感じるようになる。冷たいはずのプールから出るほうが寒くなり、できるだけ水の中にいたいと思う。身体を締め付けてくる寝袋の生暖かさと湿気は、どこかあの感覚に似ている気がした。
「ここから出たくない」
 だんだんそう思えてきた。 
 ふと、見上げた天井からぶら下がる照明のランプシェードに、自分の寝姿が歪んだ像になってうっすらと映っていた。
 濃い灰色をした円筒形の塊から、頭だけが飛び出している。塊の所々に三角形をした突起が盛り上がっている。
 まちがいない。ナマコだった。
 木寺はナマコに包まれているのだ。
 目が覚めたら芋虫になっていたという小説は読んだことがあったが、たしかあれは自分が芋虫に変身したはずで、この状況とはちがっている。布団がナマコになっているのだ。変身したのは俺ではなく布団だ。ナマコになった布団が俺を取り込もうとしているのだ。
「いや、待てよ」
 どうやっても布団から抜け出せないのは、俺と布団が一体化しているからじゃないのか。
 木寺は眉根を寄せた。ナマコに包まれているのではなく、俺自身が布団ごとナマコになったのだとすれば。
 やっぱり俺がナマコなのだ。
 まとわりつくこの生暖かな湿り気は、俺自身がつくり出しているものなのだ。ずっと布団の中にいたいと思うのは、ここが俺自身だからなのだ。
 もう一度、ランプシェードに映った自分の寝姿を見る。円筒形をした灰色の塊から、ひょっこり飛び出している自分の頭がやけに不自然な存在に思えた。
「ナマコか」
 木寺は口をとがらせてそう言うと、長く大きくな息を吐いた。そのまま全身からすっと力を抜き、布団に締め付けられるままにする。
 人は慣れる。どれほど特殊な状況でも、やがて慣れるのだ。
「ナマコなんだな」
 木寺は頷く。

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