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雲が笑っていた

illustrated by スミタ2022 @good_god_gold

 イタリア製の古いスクーターは俊哉を乗せ、パタパタとリズミカルな音を立てながら風を切っていた。造りも燃費も完璧だけれども、どこか味のない最新の乗り物とはまるで違う乗り心地は、舗装されていない道から直接尻に伝わってくるガタついた振動さえもを、このスクーターで移動する楽しさに変えてしまう。
 のんびりと走る一本道の左右には夏の田圃が広がり、緑色だった稲はすでに黄緑色から黄金色に変わりつつある。視界いっぱいに飛び込んでくる稲穂の絨毯の隙間から、田圃のところどころに残っている小さな池が夕方の光を受けてキラキラと輝きを見せていた。
 どこからか渡ってきた軽やかで乾いた風が俊哉の頬をそっと撫でたあと、稲穂を揺らしながら遠くへ去って行く。俊哉はこの風をよく覚えている。毎年この時期になるといつもやってくる風だ。
 一斉に稲穂が動いた。俊哉はスピードを落として首をぐるりと回す。今年の梅雨は雨が少なかったので水涸れを心配していたが、七月に入って何度かしっかりと降ってくれたおかげで、稲はしっかりと実りを見せてくれている。
 俊哉は正面を見た。遥か前方の道脇に黒い影がある。
「あれは、なんだろう?」
 スクーターがパタパタと近づくにつれ、そこに人が立っていることがわかった。こんなに熱いのに濃い色の長袖に長ズボンを身につけ帽子までかぶっているようだ。さらにパタパタ音を響かせながら近づくと、ようやく影の正体が判明した。
 警官だった。紺色の制服を着ている。
「どうしたのかな?」
 俊哉のほかにはめったに人も車も通ることのないこの道の脇に、警官が立っているなんてことは、これまでに一度もなかった。
 何もない田圃の間を抜ける一本道になぜか設けられた、わずか三メートルほどの横断歩道の横で、退屈そうな顔をして警官はぼんやりと立っている。
 軽くレバーを握りながらブレーキペダルをゆっくり踏むと、イタリア製の乗り物はちょうど警官のすぐ手前で止まった。動きが止まってもエンジンのパタパタ音が鳴り続けている。
「こんにちは」
 そう声をかけると、警官は面倒くさそうな顔つきでこちらをジロリと見た。見覚えのない顔だった。どうやら村の警官ではなさそうだ。額には汗が噴き出して水玉が浮かんでいる。
「どうしたんですか? ここで何か問題が?」
 俊哉は尋ねた。どうしてこんなところに立っているのか。
 警官は何も答えず、相変わらず面倒くさそうな顔をしたまま、俊哉から視線を外して顔を横に向けた。どうやら答える気はないらしい。
 俊哉はひょいと一人で肩をすくめると、再びハンドルを握り直した。アクセルスロットを軽く捻るとイタリアの相棒はすぐに走り始める。
 一瞬、警官がすっと動く様子が目の端に映ったような気がした。
 ピッ、ピーッ。
 甲高い笛の音に続いて大声で怒鳴る声が聞こえた。
「そこのスクーター、止まりなさい」
 あまりにも驚いたので俊哉は思わず強くブレーキレバーを握りすぎた。スクーターがつんのめりそうになりながらタイヤの動きを止める。
 警官がニヤニヤと下品な笑みを浮かべながら近づいてきた。
「はい、エンジンを止めて」
 俊哉は戸惑いつつエンジンを止めると、スクータに座ったまま警官を見た。
「一体なんですか?」
「あんた、歩行者妨害だからさ」
 警官はそう言って口の両端をくっと持ち上げた。下品な笑みがさらにいやらしく見える。
「え?」
「横断歩道を渡ろうとする歩行者がいたら停止しなきゃダメだろう」
「でも歩行者なんていないじゃありませんか」
「くくくく。俺が歩行者なんだよ。あんた、俺が横断歩道を渡ろうとした瞬間に走り出したからな。歩行者妨害だよ。はいスクータから降りて免許証を出して」
「オレ、止まりましたよ」
「あ?」
 警官が急に無表情になった。
「あそこに止まって、あなたに挨拶したじゃないですか」
 俊介は口を尖らせ、横断歩道の奥を指差す。
「知らないな」警官は首を左右に振った。
「とにかく俺が渡ろうとしているのに、あんたは走り出したんだよ」
「そんなバカな話があるかよ!」
「いいから、免許証を出しなさい」警官は俊哉に手を伸ばした。
「イヤです。納得できません。そこまで言うのなら証拠を見せてくださいよ」
「ふん。俺が見たんだから、それが証拠だろ。くくくく」
 警官は意地悪く笑う。
「そんなの証拠になるわけ無いでしょう」
「だったら証人を呼んでやるよ」
 そう言うと警官は首からぶら下げている金属製の笛を指で摘まみ、口に当てた。
 ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ、ピーッ。短く三回、長く二回。耳の奥をビリビリと震わせる高い音が広い田圃の真ん中で鳴り響く。
 バサバサバサッ。
 周りの稲穂が大きく揺れた。遠くからやってくる例の風がまた吹いたのだろうと俊哉は思ったが、そうではなかった。
 稲穂の間から人の影が現れたのだ。一人、二人、五人、それまでいったいどこに隠れていたのか、稲穂をかき分けて次々に人影が田圃から道へと出てくる。みんな長袖に長ズボンの制服を着た警官だ。
 やがてぜんぶで二十人ほどの警官が、俊哉とスクーターを取り囲んだ。
「見たぞ」
「見た」
「歩行者妨害だ」
「渡ろうとしていたのに」
「我々は見たぞ」
「お前は走り出した」
「お前は止まらなかった」
「見たぞ」
「そうだ。我々が見たぞ」
 口々にそう言いながら警官たちは俊哉の周りで輪になってグルグルと回り始める。
「どうだ。こんなに証人がいるんだ。諦めるんだな」
 警官たちがつくる輪のすぐ外側で、最初の警官が腕を組み不貞不貞しい笑みを浮かべた。

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