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バイオリン

illustrated by スミタ2021 @good_god_gold

 文化祭の直前になると、どうしても遅くまで練習が続くから帰るのも暗くなってからになる。校舎の玄関でぼんやりと灯る丸い電灯は、すぐ足元を薄く照らしているものの、ほんの数歩ばかり進めばもうその光は届かず、あたりは真っ暗になってしまう。

 学校沿いの道路に立った街灯から零れ落ちる明かりを頼りに校舎の玄関から校門までの細い道を歩くのは、きっと一人ならさぞ心細いだろう。美しい虫の音が聞こえれば聞こえるほど、寂しさや不安が募るにちがいない。けれどもみんなと一緒ならそんな心細さもどこかへ消えてしまうのだ。
「最後の合奏のとき、匡先輩の靴紐、ほどけてたよね」
「そうそう」
「ねー、あはははは」
 他愛の無い話に大笑いをしながら、みんなと一緒に校門を出たところで、佐原茂禄子はハッと一人立ち止まった。
「どうしたの?」
「忘れ物した」茂禄子はペロっと舌を出した。
 今回の演奏会では茂禄子にもバイオリンのソロがある。家でもう一度おさらいをしようと思っていたのに、部室のロッカーに譜面を入れてしまったことに気づいたのだった。
「じゃあ、先に行ってるよ」そう言ってみんな大笑いする。どういうわけか、何を見聞きしても笑うのだ。特に練習が終わって疲れているときには、まちがいなく笑ってしまう。
「うん、すぐ追いかけるから」
 茂禄子は踵を返し、いま出てきたばかりの校舎へ駆け戻った。玄関ホールの高い天井に足音が幾重にも跳ね返って、何人もの足が茂禄子と一緒に暗い校舎の中を走る。たった五段しかない階段を上がって中庭を抜け、北校舎に入るとふっとバラの香りがした。入り口に飾られた華道部の作品が香ったのだろう。

 階段で三階まで上がるとすぐに右側に折れて、突き当たりの音楽室へ向かう。そろそろ寿命が近いのか、廊下の天井に並ぶ蛍光灯の一つが、ピーンと高い音を立てて点滅を繰り返していた。
「きゃあっ」
 音楽室の扉に手を伸ばしたところで、不意に何かが視界に入った気がして茂禄子はいきなり全身に冷たい水をかけられたときの震え方をした。身体がギュッと縮んだままガチガチに硬直して、まるで身動きがとれない。心臓の立てる大きな音が廊下の窓から外まで伝わるようだった。
 茂禄子の目の端に映ったのは人影だった。音楽室に隣接する準備室には廊下側にも窓があって、薄暗い部屋の中でゆっくり揺れる人影がその窓越しにぼんやりと見えている。部屋の照明はつけられていたものの、灯っているのは奥の四分の一だけで、茂禄子のいる廊下側は暗いままだった。
「先輩、ですか?」
 半分開いた準備室のドアから顔と片方の手だけを差し込むようにして、茂禄子は室内に向けてそっと呼びかけたが、自分の口から出てきた声は思っている以上に細くて、しかも震えていた。
「あのう、すみません」
 なぜわざわざ声をかけるのか、自分でもわからないまま茂禄子はもう一度呼びかける。今度ははっきりとした声が出た。

 それでも人影は何の反応も見せず、ただ壁を向いたままゆっくりと揺れている。規定の詰め襟を着ているから、この学校の男子生徒なのはまちがいないが、少なくとも音楽系の部活をやっている男子ではなさそうだと茂禄子は直感した。
 人影は、どうやら壁際に展示されている楽器を一つずつ順番に眺めているようだった。壁に掛けられたバイオリンを見上げた瞬間に、彼の横顔がはっきりと見えた。
 あれは井間賀君だ。茂禄子は目を丸くした。
 同じ学年の井間賀俊哉は、試験のたびに学年で一番か二番の成績をとる秀才で、授業中も教科書よりこっそり譜面を眺めている時間のほうが長い茂禄子にしてみれば、雲の上の存在、まるで別の世界の住人だった。
 どうして井間賀君がこんな時間に音楽準備室にいるんだろう。茂禄子は首を捻った。楽器に興味があるのだろうか。
「井間賀君?」
 わざとパイプ椅子に手をかけてガタリと大きな音を立てながら茂禄子は彼の名を呼んだが、井間賀はあいかわらず壁を見つめたまま、やっぱりこちらを見ようとはしなかった。
 それまでゆっくりと揺れていた身体の動きがぴたりと止まった。井間賀は両手をズボンのポケットに入れて、じっとバイオリンを見つめている。
 ほんの少し頭を垂れたまま微動だにしない姿は、誰も弾いていないバイオリンから鳴り響く音を懸命に聞き取ろうとしているかのようだった。
 照明の薄暗さもあってか、その後ろ姿はどことなく寂しそうで、それでいて、楽しそうでもあった。
 しばらくの間、茂禄子は息を潜めて井間賀の様子を伺っていたが、しだいにそれ以上見てはいけないような気がして、やがてそっと準備室を出た。

 音楽室のロッカーから必要な譜面を取り出し、帰ろうとしたときにはもう準備室の明かりは消えていて、井間賀の姿も見えなくなっていた。
 北校舎から中庭へ出るときに、またバラの香りが鼻をくすぐったが来たときにはあると思っていた華道部の作品はなぜかどこにも見当たらなかった。
「ふううっ」
 玄関外の暗い小道を早足で抜けて、虫の音に追われるように校門を出たところで、茂禄子は大きく息を吐いた。さっきからずっと胸が押しつぶされるような気持ちが続いていたが、それが何なのかは自分でもわからなかった。

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