踏んではならなかった
illustrated by スミタ2021 @good_god_gold
窓の外では大きな紙袋を持った人たちが足早に歩いていた。予報では午後から雪が降ることになっているが、透き通った冬晴れの空には今のところ雲一つない。数日前から急に冷え込んだせいか、それとも安売りがあったからか、みんな同じようなダウンジャケットを着込んで、どことなくホッとした笑みを浮かべている。
師走の慌ただしさが店の中にもほんの少しばかり伝播しているようで、いつもは静かな店内もどことなくざわめいた雰囲気に包まれていた。
昼過ぎに店に入ってからもうずいぶん時間が経っている。夕方になって店内のBGMがクリスマスソングに変わったことには、なんとなく里桜も気づいていた。
「でね、ラブグラだったら、七話の合田クンの背景が最高でしょ。動きもかっこいいし」
カフェオレのカップを置き、亮子が大袈裟に手を広げた。
「ああ、わかる。それ超わかる」
有音が激しく手を叩くと、椅子の背もたれに掛けられたコートがずり落ちた。コーヒー一つと誰かが注文する声が聞こえてくる。
「私は田辺氏がいい。それもエンディングの田辺氏」
「えー、里桜って田辺氏推しなの?」
ケーキをフォークで持ち上げたまま、菱代が目を丸くする。
「うん、ガチで田辺氏推し」
「私も田辺氏はわりと好き。かわいいよね田辺氏」
「そうそうそうそう」茂禄子と有音が同意した。
「茂禄子もそう思うんだ」
「うん。ラブグラはキャラもストーリーもよくできてるなって思う。ちょっと悔しいくらい」
「あははは。だったら茂禄子もそういうのつくってよ」菱代がちょんと茂禄子の肩をつついた。
「ねえ。やりたいね」
アニメ談義はどこまでも止まらない。ボックス席の内側は、もう完全に彼女たちの世界になっている。
「今期って、ワン・ステップ・ビヨンドのキャラデ担当がけっこういろんな作品でキャラデしてるよね」
「あ、私もそう思った」
「だよね。やっぱりワンステって、うちらにとって、いろんなアニメの中心になってるよね。こんなにハマったの、茂禄子のおかげだよ」
「こんど誰かの家で一晩中ワンステの円盤を見る会やらない?」
「やりたい」
「そりゃ、やっぱり茂禄子の家でしょ」
「それがね、うちに円盤ないの」そう言って茂禄子はクスリと笑った。
「ええっ」有音が大きな声を出した。みんなも目を丸くしている。
「私、ワンステだったらサオ推しだなあ」亮子が遠くを見る目になった。
夢中で話している彼女たちを見て、里桜の口元がふいに綻んだ。
こうやって気兼ねなく好きなアニメの話ができるのは、このメンバーがいてくれるからだ。職場では誰一人としてアニメの話に乗ってくれないどころか、ヘタにバレたらオタク女子のレッテルを貼られてしまうだろう。
もちろん普段からネットではやりとりしているものの、数ヶ月に一度、気心の知れた仲間で集まって、時間の許す限りおしゃべりできることは里桜にとって何よりの休息だったし、きっとそれは他のみんなも同じ筈だった。
「あのう、横からすみません」
突然、ボックス席の仕切りを越えて男性が顔を覗かせた。四十代半ばだろうか。ブランドものの黒いトレンチコートを羽織っているが、肩幅が足りていないせいで腕周りの布がやけに弛んでいる。
「はい?」
「ワン・ステップ・ビヨンドがいろんなアニメの中心だなんて、ぜんぜん違いますよ」
そう言って男性は薄笑いを浮かべた。
「はあ?」
茂禄子が唖然とした顔になる。
「誰ですか、あなた?」菱代が男性を睨みつけた。
「いや、単なる通りすがりですけどね、ほら、間違っているから指摘しただけで」
男性の声が妙に上擦った。
「すみません、私ら自分たちだけで盛り上がっているんで、放っておいてもらえませんか?」
「そういうわけにはいかないでしょ」男性はせせら笑う。
「何がですか?」
「人に聞こえる場所で間違ったことを言えば、指摘されるのは当たり前じゃないですか。自分たちだけで盛り上がっているなんて、そんな理屈は通用しないんですよ」
「横から勝手に口を挟んできたのはそっちですよね」里桜が首を傾げた。
「ここは公共の場所ですからね。誰からも口を挟まれたくなかったら、こんなオープンな喫茶店で半端な知識を披露するんじゃなくて、誰かの家の中で話していればいいんですよ」
男性はニヤリと口端を曲げた。
「披露なんてしてないし。だいたいあなた誰なんですか?アニメ業界の人なんですか?」
「いや、別に仕事は関係ありませんよ。まあ、少なくともあなたたちよりは多少はアニメに詳しいつもりですけどね」
そう言って肩をすくめる。
「いいですか。私たちはワンステが好きで、ワンステきっかけでいろんなアニメを見るようになったねって話をしてるだけなんですけど」菱代が硬い声を出した。こういうときの菱代はなかなか強面になる。
男はフンと鼻を鳴らした。
「ワン・ステップ・ビヨンドがきっかけでアニメを見始めたなんて、マジで素人だなと思ったから指摘しただけですよ。あんなの駄作もいいところですから」
男の言葉に茂禄子の顔がさっと曇った。菱代がそっと茂禄子の肩を撫でてやる。
「ワンステおもしろいよね」
里桜は男を無視するかのように、みんなを見回した。
「はん。あんな駄作をおもしろがるのは素人だけですよ。あと、ラブグラは七話よりも十三話のほうが出来がいいですよ。どうせ気づいていないでしょうけど、作画監督が違うんですよね」
男の声がやたらと大きくなった。もともと甲高い声が耳障りだ。
「ワンステって駄作なんだ」茂禄子がポツリと言った。
「そんなことないって。だってすごい人気じゃん」菱代と亮子が大きく首を振った。
「駄作ですよ。素人が喜んでいるだけで、あんなの業界じゃ誰も相手にしてませんからね」
男は勝ち誇った。ボックス席を上から見回すように仕切り板から半身を乗り出して、腕を組んでいる。酸っぱい匂いが里桜の鼻に届いた。
里桜は男の顔を正面からキッと睨みつけた。
「どこの誰だかよくわからない人からあれこれ言われても、はあそうですかとしか答えようがないんですけど」
男はニヤニヤ笑いながら里桜の言葉を遮る。
「はい、論破ぁー。論破しましたよぉ」叫びながら組んでいた腕をほどき、パンパンと手を叩いた。他の客と店員たちが何事かと一斉にこちらを見る。
「は?」
「あなたたちみたいな人って、論破されたらすぐに素性だとか誰だとか、そういうことを言い出すんですよねぇ。議論に素性なんて関係ないでしょ?」
男は嬉しそうに再び両手をパンと大きく叩き合わせた。
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