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代行

illustrated by スミタ2024 @good_god_gold

 焼き鳥の香りが鼻に届くと、長谷川の腹が音を立てた。
 駐車場へ向かう足を止めて振り返る。ついさっきまで赤く燃えていた夕空は、もう夜に追いやられようとしていた。その空の下で赤い提灯がいくつか灯り始めている。
「ふむ」
 ほんの少しばかり考え込むような顔をしたが、長谷川の心はとうに定まっていた。踵を返して駅前の小径へ歩を進める。
 半町にも満たない道の両側に数えるほどの飲食店が軒を並べているだけなので、さすがにこれを繁華街と呼ぶのには語弊があるが、給料日あとの金曜だからなのだろう、小径にはそれなりに人が溢れている。
「いらっしゃい、何名さんですか?」
 居酒屋と書かれた提灯を脇目に暖簾を潜ると、威勢のいい声が飛んできた。 
「ひとりです」
「はいよ、お一人さん、カウンターへどうぞ」
 まだ宵の口だが、テーブル席では既に顔を真っ赤に染めた男たちが大声を張り上げては、何がおかしいのか、やたらと笑っている。何かを燻す煙と、肉の焼ける香りと、酔った男たちの放つ雑な気配がほどよく混ざり合い、この居酒屋をいかにも居酒屋たらしめていた。
 頭上のスピーカーからは八〇年代の歌謡曲が流れている。
 カウンターについて、メニューを開こうとしたところで、横合いのテーブル席から声がかかった。
「あのう、長谷川さんですよね?」
「え。あ、まあ、いちおう長谷川です」
 そう言ってから長谷川は思わず苦笑した。不意を突かれたせいか妙な答え方になってしまった。
「川島です。マルタカの」
 声をかけてきた男は四十半ばだろうか。長谷川よりもいくぶん若く見えた。八人掛けの大きなテーブルを同年代の男五人で囲んでいる。空になったジョッキや小皿がずらりと並んでいることから察するに、かなり早くから飲んでいるに違いなかった。
「ああ、川島さん。どうもどうも」
 どうにも思い出せないまま、長谷川は頭を下げる。川島にもマルタカにも覚えはないが、いつどこでどのように人と人が繋がっているかはわからない。商談会で名刺交換でもしたのだろうか。わからなくとも、わかった顔で応じるのが大人である。
「こっちへ来ませんか?」
 川島が空いている椅子の座面を手でパンと叩いた。
「これ、みんなマルタカの同僚ですから」
 同じテーブルにいる男たちも手を叩くようにして長谷川を招く。
「いやいや、おじゃまでしょう」
 同じタイミングで酔うのならまだしも、すっかりできあがっているグループにあとから参加するほど面倒なことはない。
「じゃまなんてことありませんよ。何を仰いマスやらサケやら」
 川島の言葉に男たちが一斉に笑った。
「わははははは」
「いいねぇ、絶好調だな」
「サケはいいけど、お情けはいやよ」
「はははははは」
 長谷川は腹の底で大きな溜息をついたが、もちろん顔には出さなかった。
 相手が誰なのかわからないまま無下に扱わないほうがいい。少なくとも、こちらは覚えていないが、向こうは長谷川を覚えているのだ。
 カウンターからゆっくりとテーブル席へ移動すると、若いアルバイト店員が、おしぼりと水を運んできた。
「ご一緒で?」
「ええ」
 川島が答える。
「お飲み物はいかがいたしましょう?」
「それじゃ、生ビールを」
「はい。五番さん、生一丁」
 アルバイトが溌剌とした声をカウンター奥の厨房へ飛ばした。
「お客さん、車じゃないよね?」
 即座に厨房から大将らしき男のダミ声が返ってくる。
「あ」
 長谷川の口が開いたままになった。
 大将がカウンター越しに顔を覗かせる。大柄な男だ。白い法被に和帽子を被った姿は空手か柔道をやっていたのか、妙な威圧感があった。
「いちおう、みんなに聞いているんだけどさ」
 大将はギョロリとした目を長谷川に向ける。
「なんだ車なの? じゃあ、酒はダメだよ」
「やっぱりダメですか」
「当たり前だろ。飲んだら乗るな、乗るなら飲むなだよ。飲ませたら店も共犯になっちまうんだから」
「そうですよね。じゃあ、烏龍茶で」
 長谷川は残念そうに目を閉じて大きな息を吐いた。

 刻が進むにつれ、テーブル席の男たちはさらに盛り上がるが、酒の入っていない長谷川は、今一つ場の空気に馴染めずにいた。
「長谷川さんは、長谷川さんれすかあね」
 川島は呂律が回っていない。
「当たりまえあろう、あははははは」
「あにいってんだ、わはははははははは、ごほっ、むほっ」
 マルタカの男たちが咳き込むほどに大笑いした。
「らって、長谷川さんしょ?」
「ええ、いちおう長谷川です」
 正面を見据えたまま、淡々と答えるよりほかなかった。ここで素面なのは、長谷川一人だけなのだ。
「ほらあ、いちおう長谷川って」
「じゃあ、ちあうのあも」
「あははははは」
 このやりとりで、どうしてこんなに盛り上がれるのか、さっぱりわからない。
 なぜ俺はまったく見覚えのない酔っ払いと同じテーブルにいなければならないのか。苦痛でしかなかった。さっさと帰りたいのだが、マルタカが何なのか、川島が誰なのかがわかるまでは席を立つわけにいかないのだ。せめてビールの一杯でも飲むことができれば。少しでも酔うことができれば。俺だって彼らと一緒になって何もかもを笑い飛ばしたい。
「はい、湯葉巻きお待たせしました」
 追加の料理を大将が自ら運んできた。
 長谷川は盆に乗せられた小皿を覗き込んだ。大葉を湯葉で挟んで巻き、油で揚げている。ごま油と生姜の香りがつんと鼻をついた。
「ああ、これは日本酒と合うだろうなあ。くう」
「らめすよ、車らんすから」
 マルタカの一人が言う。
「わはははははは」
「車ってシャだよな、シャ」
「あっはははははは、シャだって」
「うははははは」
 テーブルの端に小皿をまとめて並べながら、大将はさり気なく長谷川に顔を近づけた。
「なあ、お客さん。代行を使えるだろ」
 長谷川は虚を突かれたようにハッと顔を上げ、大将をまじまじと見つめた。
「あ、そうかも」
 そうだった。すっかり忘れていたが、その手があった。代行運転を頼めばいいのだ。そうすればこの酔っ払いの輪に入ることができる。へべれけ会話で一緒に笑うことができる。酔った勢いでマルタカや川島を思い出せるかもしれない。
「呼ぶかい?」
「はい。お願いします。それと日本酒を」
 大将はニヤリと笑って首を左右に振った。
「まだまだ。ちゃんと代行が確保できるまではダメだよ」

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