三百の夢想
開け放たれた窓からは秋を感じさせる風と、まもなく夏休みを終える子供たちの声が流れ込んでいた。
応接のソファに腰を下ろし、青谷凪亮子はぼんやりと壁の時計を眺めていた。右往左往社の編集者である彼女は、いつもと同じように今日も青色のゆったりとした服を着て、裾をひらひらとさせていた。いつだったか、金魚のようだと言われたことがある。
この家の主、丸古三千男は先ほど奇声を上げながら書斎へ飛び込み、それきり姿を見せようとはしなかったが、亮子は気にも留めていなかった。ベテラン作家の奇行にいちいち驚いているようでは編集者など務まらない。
首を軽く回したあと、亮子は傍らに置いた大きなトートバッグから原稿用紙の束を取り出し、のんびりと捲り始めた。いつだって読むべきものはあって、いつだって足りないのは時間だった。
すっと現れた住み込み秘書の渡師菱代が、黙ったままアイスコーヒーを目の前に置いた。
「あ、どうも」
亮子は菱代に向かって軽く手を上げる。
「ええ」
菱代は柔らかく微笑んでから、グラスをもう一つテーブルに置くと、向かい側のソファに腰を下ろした。彼女の切れ長の目には、いつもどこか冷静な色が浮かんでいる。
ふいに窓のすぐ近くで蝉が鳴き始めた。これから始まる夏を祝うのではなく、去ろうとしている夏に別れを告げるような鳴き声だった。
「夏も終わりますね」
「ええ」
「先生は」
と、亮子は書斎のドアへ視線をやった。
「戻って来ないみたいですね」
菱代は何も答えず、アイスコーヒーに口をつけた。グラスの置いてあった場所に水滴が丸い形を残していた。
部屋の中からは、ときおり唸り声のような低音が響いてくる。唸り声は一定のリズムを刻んでいたが、ときどき消え、そしてまた復活する。まるで地の底から届くような不思議な音だった。
「そのうち出てきますから」
ジジとひときわ甲高く窓際の蝉が鳴き、すぐにバタバタと耳障りな音を立てて飛び立っていった。
真っ青だった高い空は、いつしか薄い黄色に染まり始めていた。ブロック塀の向こうに広がる林で蜩が鳴き始めている。
「蜩って六月ごろから鳴いているんですって」
菱代がそう言うと、
「そうなんですか」
と、亮子は目を丸くした。
「夏の終わりだけなのかと思っていました」
「じつは私もなんです」
二人は目を合わせて、どちらからともなく笑った。なぜ自分が笑っているのか、亮子自身にもわからなかった。
やがて薄赤色に傾いた夏の陽射しは、懐かしい香りを含んでキラキラと輝き始めた。
この香り。
子供たちの大きな歓声が上がった。
亮子は何かを思い出すようにしばらく窓を見つめていたが、やがておもむろに立ち上がり、静かに窓へ近づいた。流れ込む風を受けて、青いワンピースの裾がふわりと広がった。
「花火」
いつのまにか傍らに立った菱代がポツリと言う。
たしかにそうだ。これは線香花火の香りだ。亮子は大きく何度か頷いたあと、窓から顔を出した。
パンと爆ぜる音が鳴って、塀の向こうから白い煙が立ち上る。まだそれほど暗くなっていないのに、近所の子供たちが花火を始めていた。
「次、いくぞ。ファラオだぞ」
姿は見えないけれども、子供たちの表情が目に見えるようだった。
そういえば。
小学生のころ、やたらと火を怖がる男の子がいたことを亮子は思い出した。夏の終わりの子ども会で、彼は火が燃え広がらないようにと、火をつける前に花火をぜんぶバケツの水に浸してしまったのだった。結局花火はできず、集まった子供たちは、泣きじゃくる彼をみんなで取り囲んで詰り続けた。大人たちも一緒になって彼を詰った。
「ロケットやろうぜ」
男の子が大きな声を出した。
「ダメだよ。もっと暗くなってからにしようよ」
別の男の子が弱々しい声で言う。
あれから彼がどうなったのか亮子にはどうしても思い出せなかった。夏休みが終わって、彼は学校に来たのだろうか。わからない。ただ、みんなと一緒に詰っている自分のやけに高い声と、泣いている彼の赤い目だけが記憶に残っていた。
夕暮れが、ゆっくりと空を覆い始めていた。
「少し冷えてきましたね」
菱代が言って二人はその場を離れた。開けたままの窓からは、相変わらず子供たちの声が聞こえていた。
亮子はソファに戻って原稿用紙の束を手に取った。菱代が天井の照明を灯すと、原稿用紙の影が灰色の塊になってテーブルの上へ薄く伸びた。
「うけけけけけ」
ふいにドアの奥から奇声が聞こえてきた。
ドン。ガシャン。
何かがぶつかる重い音と、ガラスの割れる音がした。
「大丈夫でしょうか?」
亮子はドアに顔を向けた。
「ええ。でも」
菱代は壁際のサイドボードへすっと近づき、立てかけてあったステッキを手にした。
塗装を施していないサイドボードは北欧風のデザインで、取っ手の真鍮が鈍色にくすんでいる。ボードの上には木でつくられた小さな船の模型と、顔の描かれていないこけしが二体置かれていて、顔がないのにもかかわらず、なぜか亮子はこけしがこちらをじっと見ているような気がしていた。
バンッ。激しい音を立てて書斎のドアが開き、丸古が飛び出してきた。
「うけけけけけけ」
グルグルと腕を回しながら、丸古は引き攣った笑いを張りつけた顔で室内を見回した。
「ワシはやったぞ。やり遂げたぞ」
目には狂気が宿っている。
と、丸古の顔から笑いが消えた。
どうやら呆気にとられた顔をして自分を見ているソファの亮子に気づいたらしい。
「いかん! これはいかん!」
老齢とは思えぬ俊敏な動きで踵を返し、再び書斎へ駆け込もうとした丸古の前に、菱代が素早くステッキを差し出した。
「ぐへっ」
まっすぐ真横に伸びたステッキが腹に食い込み、丸古は上体を丸めるようにしてその場に転がった。
「ああっ、先生」
思わず亮子が立ち上がる。
「大丈夫ですよ」
そう言って菱代は丸古に近づき、苦悶に身体を捩らせている丸古の傍らで仁王立ちになった。ステッキの先で、丸古をつつく。
「おお」
丸古が嬉しそうな声を上げた。
「どうして逃げようとしたんですか」
菱代はステッキを持つ手に力を加えた。
「おお、おお」
「さあ、答えなさい」
菱代が床を指差すと、丸古はおずおずとその場で正座をした。肩をすぼめて上目遣いに菱代を見る。
「それはだな」
片手を胸の前に持ち上げ、ほんの少しだけ伸ばした指の先を亮子に向けた。
「青谷凪君がいたからに決まっているだろう」
うなだれて正座をしているわりには、尊大な口調だった。
「ちょっと待ってください。どうして私がいたら逃げるんですか」
「編集者を見かけたら逃げるんだ。それが作家の本能というものだ」
亮子は呆れたように目を瞑り、静かに首を左右にゆっくりと振った。
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