質問と回答
薄暗い舞台袖で腕時計を見た補佐官は、もう一人の補佐官に頷きかけた。
「長官、お願いします」
一人が声をかけると、パイプ椅子にどっしりと腰を下ろしていた官房長官が立ち上がり、首をぐるりと回した。
「さあ、お時間です」
補佐官が会場内に向けてまっすぐ腕を伸ばす。
軽く頷いてからノロノロ歩き始めた官房長官は、しかし、会見場の入り口でぴたりと足を止めた。しばらくじっと立ち止まったあと、そっと補佐官を振り返る。
「めんどうくさいんだよな。どうしてもやらなきゃダメなのか?」
口を尖らせて聞く様子は駄々をこねる子どものようだった。
補佐官たちはどちらも表情をまったく変えず、黙って長官を見つめている。
ここのところ与野党を問わず政治資金にまつわる不正経理が次々に発覚していて、メディアだけでなくその後ろにいる国民も烈火のごとく怒りを募らせていることは、さすがに世離れした政治の街の住人たちにもわかっていた。
「長官。お時間ですから」
「中止にできないのか?」
つい昨夜、長官自身の事務所でも不正経理があったと報道されたばかりである。まちがいなく今日の会見では吊し上げられるだろう。それがわかっているのに、わざわざ記者会見などやりたくはない。
「ダメです」
「できません」
二人は冷ややかな視線を長官から外さず、首だけを軽く左右に振った。
単なる役人である彼らが不正経理に関わることはなく、従って責任を追及されることもない。政治家が何をどうしようと知ったことではなかった。いつもと同じように決められた手順通りに恙なく進行すればそれでいい。いや、それだけでいいのだ。時間どおりに始めること。それが何よりも重要なのだ。
「そこを何とかするのが補佐官の役目だろうが」
「申しわけありません」
補佐官たちは深々と頭を下げた。
「まったく無能だな、君たちは」
「申しわけありません」
さらに頭を下げる。
「オレの金のこともいろいろ聞かれるんだろ」
「ええ、おそらく」
「ふん。君たちが無能だからオレが苦労するんだ」
記者会見とはそういうものである。過去の官房長官や大臣の中には説明責任を果たしますそれが義務ですなどと豪語したまま何年ものらりくらりと躱し続けている者もいるが、長官にそこまでの胆力はなかった。
「質問を禁止できないのか?」
「できません」
過去には一社につき質問は一回だけで追加の質問は認めないなど、勝手な取り決めをつくれた時代もあったが、国際的な笑いものになったこともあって、もはやその取り決めを守るメディアはいない。
「もうお時間を過ぎていますから」
補佐官が静かに手を上げて会場の中を指差す。時間どおりに始められなかったせいか、物腰は柔らかいがどこか苛ついているように見えた。
「わかってる、わかってるよ。ああ」
長官は口を尖らせたまま、首を落として自分の靴を眺めた。
「おっ、紐が緩んでいるぞ」
大きめの声でそう言うと、長官はそそくさと片膝をついて靴紐に手を伸ばした。さほど緩んでいるようには見えないが、靴紐を一度ほどいてからゆっくりと結び直す。
補佐官たちは顔を見合わせ、呆れた顔でそっと肩をすくめた。
「これでよし」
やがて紐を結び終えた長官は、のっそりと立ち上がって大きな溜息をついてから、補佐官たちにしっかりと頷いた。
「さあ、いいだろう」
「それでは」
「急いでください」
補佐官も長官に頷き返し、会場への袖幕を捲ろうとした。
「あっ、待て。こっちも緩んでいる」
長官は補佐官の背に手で触れながら、もう一方の手で靴を指差して言った。
「これじゃ、会見はできないからな。いかん、いかん」
またしても片膝をついて、紐を結び始める。
「長官、お急ぎください」
「もう予定より十分近く遅れています」
補佐官たちはそれぞれの腕時計を見て、うんざりした口調で言った。明らかに会場内はざわつき始めている。二人の体に力が入って、どんどん強張っていくのが服の上からでもわかった。どうやら我慢の限界が近づいているようだ。
「わかってる、わかってるよ」
靴紐を結び直しながら長官は口を尖らせた。
「だが、靴紐がほどけていたら会見はできないだろ。それくらいわかれよ」
たっぷり時間をかけて紐を結び直した官房長官はのろのろと立ち上がるとぐいっと姿勢を正し、補佐官たちを見やった。
「これでよし」
補佐官たちに向かって大きく頷く。
「では」
苛ついた表情で待っていた補佐官は、素早く会場への袖幕を捲ろうとした。
「あ、ちょっと待て。今日のマイクは何色だ?」
「はい?」
補佐官たちはギョッとしたように顔を見合わせた。いったい長官は何を言っているのだ。
「マイクだ。演台に置いてあるマイクの色だよ。それくらいわかるだろう。君たちはバカなのか」
補佐官の一人が怪訝な顔つきのまま袖幕から会場内へ顔を入れ、すぐに引っ込めた。
「銀色です。いつもと同じです」
「ああ、銀色じゃダメだな。会見はできない」
長官は大袈裟に首を振る。
「マイクは黒じゃなきゃ」
「どうしてですか?」
丁寧な口調で聞いているが、補佐官の言葉にはあきらかに怒りの気配が含まれていた。
「最近、金属アレルギーでな。金属のマイクはダメなんだ」
「あれは安物です。金属なんかじゃありません」
「そうです。プラスチックに銀色の塗料を塗っているだけです」
「いちいち言いわけをするな。とにかく銀色はダメなんだッ。金属っぽいだけでアレルギーが出るんだッ!」
長官が怒号を発し、補佐官たちは首を竦めた。相手は政治家、しかも官房長官である。どれほど理不尽なことを言われても役人が逆らうわけにはいかないのだ。
慌てて舞台袖の音響担当者に指示を出すと、すぐに会場内でプツッとマイクの切れる音が鳴り、続いてプツッとマイクのつながる音が聞こえた。
「黒いマイクに交換されました」
音響担当からの合図を受けて補佐官が言う。
「さあ、お願いします」
「もう、かなり遅れておりますので」
「ふん。オレのせいにするな。お前らの段取りが悪いからだろうが」
長官の言葉を無視して、補佐官の一人が袖幕に飛びつくようにして捲り始めた。会場内の照明が差し込んで、舞台袖がぼんやりと明るくなる。長官の影が床で濃くなった。
「あ、ちょっと待て」
「今度は何ですか!」
補佐官がついに大きな声を上げた。
「もう、二十分も遅れているんですよ!」
そう言ってグイッと上着の袖を捲り上げると、腕時計を長官の目の前につきつける。もう限界だ。この男にはつきあい切れない。そう言いたげな表情だった。
「いちいち騒ぐな。だから君たちは無能だと言うんだ。いいか。オレはさっきおやつを食べ過ぎたんだ。ベルトがきついから穴を一つ緩めるだけだ」
「ベルトなんてどうでもいいですから!」
「早く会見を始めてください!」
彼らにとって何よりも大切なのは時間どおりに進行することなのだ。官房長官の勝手な振る舞いで進行に遅れが生じるなどあってはならない。
二人は長官をきつく睨み付けると、そのまま袖幕を捲った。やっと始まるのかという記者たちの安堵が会場内に広がる。
「バカが! 苦しくなってオレが途中で倒れたらどうするんだ。遅れて始まるのと会見の途中で救急車を呼ぶのと、君たちの責任が重く問われるのはどちらだと思っているんだ? あ? 何かあったら飛ばされるぞ?」
袖幕を掴んでいた補佐官の手が緩み、開きかかっていた入り口が閉じた。場内から差し込んでいた光が遮られて再び舞台袖は薄暗くなる。
何が起きたのかわからず、会場内のざわめきが大きくなった。
「ふふふふ。それではベルトを緩めさせてもらおう」
官房長官は上着を脱いで傍らのケーブルスタンドに掛けると、ベルトに手をやって剣先を引っ張り、小穴からツク棒を引き抜いた。ベルトが緩んでズボンがずり下がった。その瞬間。
「うわっ、何だ!」
いきなり長官が奇妙な声を上げた。
補佐官の一人が長官の背後から腕を絡め取って、羽交い締めにしている。
「もうこれ以上の遅れは許せません」
淡々とした表情のまま、補佐官は締め付ける腕に力を込めて、もう一人の補佐官を見やった。彼も同じく淡々とした表情のまますぐに頷き返す。
「今すぐ会見を始めていただきます」
二人の補佐官は手早く袖幕を捲り、官房長官を引きずるようにして場内へ連れ込んだ。演台の前まで引きずると、強引に立たせてマイクのスイッチを入れる。
「それでは会見を始めます。長官、どうぞ」
一人がマイクに向かってそう言い、呆然としている官房長官を演台の前に残して二人とも素早く舞台袖へ走り去った。
「ああ、やっと始められたな」
「三十分近い遅れだがな」
補佐官たちはホッとしたような表情で言葉を交わした。あれほど強張っていた体からは、すっかり力が抜けている。
「長官、途中で救急車をなんて脅しやがって」
「俺たちを何だと思っているんだ」
二人は舞台袖から会場を覗き込んだ。会見はすでに始まっている。ここから記者たちの追求が始まるのだ。五十億円の使途不明金。三千五百万円の書籍代。政治資金から支払われた四百八十円の牛丼弁当。追求されそうな話題はいくらでもあった。
「せいぜい不正疑惑をとことん追及されるといい」
二人はほくそ笑む。
「えー、それではどうぞ」
長官が小さな声で、おそるおそる記者の一人を指差した。
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