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よろしい

illustrated by スミタ2023 @good_god_gold

 ようやく捕まえたタクシーに乗り込み、天豊はホッと息を吐いた。これでなんとかまにあいそうだ。
「空港まで」
 言いながらシートベルトを締める。
「えっ?」
 運転手は驚いた声を上げてこちらを振り返った。髪には白いものが交じり始めているが、肌艶を見る限りまだ四十前後だろう。大きな黒縁の眼鏡の向こうで目を丸くしている。
「空港ですか?」
「はい、お願いします。わりと急ぎ目で」
 運転手がゴクリと唾を飲み込む音が聞こえた。
「空港なんですね」
 口元をグッと固くして、自分を納得させるように二、三度大きく頷いてから、運転手は正面に向き直った。両手でしっかりとハンドルを握りしめる。
「それでは空港へ」
 そこで言葉を止めた。ハンドルからゆっくりと手を放して胸の前で十字を切り、静かに両手を組んだ。口の中で何やらぶつぶつと祈りのような言葉を唱えている。
 天豊の顔が曇った。何だ、何だ、何だ。どうしてこの運転手は十字を切ったんだ。どうして祈ったんだ。空港に行くだけじゃないか。何を怖がっているんだ。
 運転手はしばらく祈りを続けていたが、やがて意を決したかのようにハンドルを握り直し、決然とした声を出した。
「向かいます」
「あ、お願いします」
 天豊は呆気にとられたまま頷いた。わけがわからないが、とにかく時間までに空港へ着いてくれたらそれでいい。
 ようやく窓外の景色がゆっくりと流れ始めたかと思ったら、すぐに再び止まった。カチカチとハザードランプの灯る音が鳴っている。
「すみません」
 振り返った運転手の顔が青ざめている。
「本当に空港へ行くんですよね?」
「そうですよ。急いでるんです。高速に乗ってもらって構いませんから」
 運転手は天豊の膝辺りに視線を落としたままじっと黙っている。
 天豊はしだいに腹が立ってきた。
「もしかして道がわからないんですか?」
 最近はタクシーに乗って日の浅い運転手も少なくない。複雑な裏道を指定しているのならまだしも、すぐ目と鼻の先にあるビルの名を伝えても知らないことがある。
 いつだったかは、客席に乗り込んだ途端に運転手から
「いま、私はどこにいるんでしょう」
と、聞かれたこともあったくらいだ。
 とはいえ、今はどのタクシーにもカーナビがついている。道を覚えていなくともきちんと設定してくれたらそれでいいのだ。
「だったらナビを使ってください」
「いえ、そういうことではなくて」
 ようやく声を出した運転手はかぶりを振った。鼻の頭にうっすらと汗が浮いている。
「電話を一本、かけてもよろしいでしょうか」
「はあ」
 天豊は曖昧な声を出した。
 ナビを設定する代わりに誰かに道を聞くつもりなのだろうか。まいったな。天豊はスマートフォンの地図アプリを開いて空港までの時間を確認した。少し渋滞しているが、今出発すればまだまにあう。顔を上げて運転手へ目をやる。
 運転手は携帯電話を耳に当てていた。

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