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 菱代ひしよの元に出産袋が届いたのはお昼前のことで、麻紐でキュッと縛られた袋の口が今にも弾けて開きそうになっていた。ほとんど臨月に見える。
「ええっ、この状態で届くんですか? 大きすぎませんか?」
 聞いていた話と違うぞと菱代は思わずしかめ面になった。予想外の大きさなのだ。公用車で袋を運んできた役所の人たちも同じことを考えているようで玄関先で苦笑いしている。ふいに強い風が吹いて袋に当たると、布が揺れて、船の帆が立てるようなバタバタという大きな音がした。
「本当にすみません。お盆休みをいただいている間に大きくなっちゃって」
「ああ、お盆休み」菱代は曖昧にうなずく。
「新しい市長が何でもいいから休めってうるさくて。私らの仕事はそういうもんじゃないんだって言っても聞いてくれなくて。ダメですね、あの市長は。で、ここにお名前と、あと印鑑ありますか?」
「はい」
「じゃあ、こちらが受け取りの控え、それから出産袋に関するパンフレット。いろいろ細かいことも書いてありますので、事前によく読んでおいてくださいね。あと、こちらは市からなんですが、安産のお守りです」
 さすがに慣れているようで、手際よく次々に必要なものを手渡していく。
「では、次がありますので」と言って役所の人たちは、まだ呆然としている菱代に向けて深々と頭を下げた。一日にいくつの出産袋を配るのかはわからないが、台風が近いので慌てているのだろう。
 けれども、慌てているのは菱代だって同じことだ。
 出産袋が届くと聞いていたので、母や姉夫婦も手伝いに来てくれているのだが、今にも破れそうなほどに膨らんでいる巨大な白い布袋を見て、誰もが困惑を隠せずにいた。
「けっこう大きいね。それにしても場所を取るなあ」そう言ったのは夫の伊輪だりんだ。
「何、その口調。自分の家族でしょ」菱代はムッとした。こういうとき、いつも伊輪は他人事のように振る舞うのだ。それがときどき許せなくなる。

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