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相性

 渡師が帰宅すると妻の有音と娘がダイニングで何やら困った顔をしていた。テーブルの上にはラップのかかった夕食の皿が置かれている。二人は先に食べ終わったのだろう。
「どうした?」
 渡師は椅子に腰を下ろし、皿のラップを剥がした。
「これ」
 娘がキッチンカウンターの上に置かれた大きな水槽を指差した。ドジョウを飼いたいと娘が大泣きして騒いだのはちょうど六歳の誕生日直前で、あれからそろそろ半年近くになる。
「ドジョウ?」
「金魚」
「ああ、金魚か」
 昨日、神社の祭りに出ていた金魚掬いの屋台で彼女が獲った金魚が四匹、水槽の中でゆらゆらと泳いでいた。それまで飼っていたドジョウとの相性が心配だったが、ネットで調べたところ問題はないらしいとわかったので、同じ水槽に入れたのだ。
「でも金魚じゃないの」
「何が?」
「これ」
 単語で話すのでどうも要領を得ない。
「金魚だろ?」
「ちがうの」
 そう言われた渡師はおもむろに立ち上がってそっと水槽に近づいた。メガネを掛け直してガラスにじっと顔を寄せる。数匹のドジョウが砂の中から顔を出している上を四匹の金魚がゆったりと移動していた。赤い金魚は大きなものが一匹と小さなものが二匹。だが一番小さな黒い魚はたしかに金魚ではなかった。下半身は魚だが上半身はヒトだ。
「人魚じゃん」
 渡師は思わず振り返った。
「そうなのよ」
 有音が困った顔のまま答える。
「なんで人魚が紛れ込んだんだ?」
 渡師はもういちど水槽の中を見た。人魚はのんびり泳ぎながら何かを気にするようにチラチラとこちらに視線を向けている。正確な性別はわからないが見た目は完全に雄だった。七三に分けた髪は先が不揃いだし、細い目の下にはクマがあるようだった。裸の上半身にはでっぷりと脂肪がついていて、全体的にどこかくたびれた雰囲気を纏っている。
 おじさんだ。おじさんの人魚だ。そう思って見直すと、黒い下半身も薄汚れた灰色に見えてくる。
 娘がそっと近づいて渡師の耳に手を当てた。
「これ、かわいくないの」
 渡師は黙ったままコクリと頷いた。たしかにかわいくない。
 不意に人魚が水中でくるりとターンをした。そのまま尾びれで水を蹴って浮かび上がってくる。ジャポと小さな音を立てて水面から上半身を出した。
「聞こえましたよ」
 妙にかさついた声だった。水中にいるわりには水分が足りていないようだ。
「そりゃかわいくないでしょうよ」
 人魚は不貞腐れたように肩をすくめた。
「子どもの言うことですから、私は構いませんよ。でも私を獲ったのはそちらですからね」
 ねっとりした口調には毒気が含まれている。
「いや、失礼しました。本当に申しわけありません」
 渡師は人魚に向かって頭を下げた。
「ほら、謝って」
 そう言って娘の頭に軽く触れる。
「イヤ」
 娘はかぶりを振った。
「だってかわいくないんだもん」
「そういうことを言っちゃダメだろ」
 しゃがんで娘と目の高さを合わせようとしたが、娘は口を尖らせたまま渡師から視線を反らした。
「あのう、お食事は?」
 いつのまにか有音が水槽のそばに立っている。
「金魚の餌でよろしいんでしょうか?」
 そう人魚に尋ねた。渡師もすっと立ち上がる。たしかに人魚が何を食べるのかよくわからない。
「別に何でもけっこうですよ。特に嫌いなものはありませんから」
 人魚はそう言って軽く笑った。
「さすがに麩は飽きましたけどね。屋台ではずっと麩だったので、ケホ」
 話の途中で人魚は咳き込んだ。渡師はあらためて人魚をまじまじと見つめる。水中にいるときには気づかなかったが無精髭が生えていた。
「ほかに何か要りますか? 髭剃りなんかも」
「あ、貝殻を使うので大丈夫です。基本的には野生の魚だと思ってもらえればいいので」
「いやそうもいきませんよ」
 こうやって話ができる以上、もはや魚として扱うわけにはいかない。
「お嬢ちゃん」
 とうとつに人魚は娘に話しかけた。急に声をかけられて緊張したのか娘は一度ビクンと跳ねてから体を強張らせた。
「おじさんはかわいくない?」
 そう言って人魚は軽く首を傾げて見せる。見ているこちらが恥ずかしくなるほど媚びたボーズだった。娘は渡師の手をぎゅっと握って顔を見上げた。どう答えていいのかわからないらしい。
「そんなことないよな? かわいいよな?」
 渡師が優しく助け船を出してやると、娘は安心したのか握っていた手の力を緩めて人魚に顔を向けた。
「ぜんぜんかわいくない」
 きっぱりと言い切った。
「そうかあ」
 人魚はがっかりしたように肩の力を抜いた。
「おじさんは、お嬢ちゃんとお友だちになりたいだけなんだよ」
 悲しそうな顔を見せた人魚が尾びれをブルブルと震わせると、水面に泡が立った。
「夕飯の残り物でもいいですか。南瓜の煮物と豚の生姜焼きなんですけど」
 有音が聞いた。
「おお、生姜焼きですか。久しぶりです。それはありがたい」
「じゃあ、今ご用意しますね」
 有音は満足そうにうなずきながらキッチンへ向かう。
「できれば、ビールもいただけると」
 去っていく有音に人魚が声をかける。
「イケる口なんですか?」
「まあ、それほど強くはないですけどね。せっかくなので」
 人魚が照れくさそうに頭を掻くとパラリと落ちたフケが白い粒となって水面に浮かんだ。

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