黒猫だった

 かつて我が家には黒猫だった猫がいた。
 近所の古びた喫茶店の窓硝子にあった里親募集の張り紙を見て譲り受けた猫だ。
 窓硝子の向こう側には六匹の仔猫が愛らしい顔を並べていて、みんな同じ親から生まれたのが不思議なほどそれぞれの毛柄はちがっていて、その中から選んだ一匹がうちへ来た黒猫だった。

 親猫の飼い主はなかなかに良い人で、予防接種だの健康診断だのはすべて向こう側で済ませてから引き渡してくれるという。せっかくなのでその言葉に甘えて僕たちは猫を迎える準備を整えておくだけにした。
 名前をどうしようかという話になって黒猫だからクロでいいんじゃないかと適当に答えた僕の案が採用になった。こうして、やってくる黒猫はクロになった。
 いろいろなことに大仰な気を回す家の人はステンレス製の小さな水皿だの陶器の餌皿だのを早々に買いそろえ、うっかりするとそのままラベルライターでクロと印刷したシールを貼りそうな勢いだったけれども、さすがにそこまではやらなかった。
 僕自身も仔猫の育て方なんて本をどこからか手に入れてきて、けっこう真剣に読みながら、あれが必要だのこれは危ないだのと、猫のいる暮らしにあれこれ想像を巡らせていたわけだから、あまり人のことは笑えない。
 そうして一週間ほどが経ち、ついにクロがやってきた。引き取りには、親猫の飼い主と待ち合わせた駅のホームで猫の入ったリュックを受け渡しするというアクロバティックな方法がとられた。親猫の飼い主が、ときどき様子を教えてくださいねと言ってその場を去ると、ホームにぽつんと立つ僕の背中には、やたらと高い鳴き声を出す小さな生き物の入ったリュックが残された。
 持ち帰ったリュックをのぞき込んだ家の人が困ったような表情を浮かべて、あまり黒くないねと言うので、僕はクロをとり出した。
 手のひらに乗った小さな生き物は張り紙の写真で見たほど黒くはなくて、焦げ茶色の下地に明るい茶色が混ざったような毛色をしていた。顔には灰色のラインが何本か流れて、鼻の横には白い染みのような模様があった。
 たしかに黒くはない。どうやら錆猫というらしい。
 あらかじめ用意してあったケージに移すと、黒猫だったはずの猫は僕たち見て、小さくニャと鳴いたあと、重なり合った布の中へ潜っていった。
 黒猫ではなく錆猫だったものの、結局、名前は変えないまま十数年が経った。
 クロと呼ぶと元黒猫は嬉しそうに近づいてきて顔をすり寄せるから、この猫はやっぱりクロなのだと僕は思った。
 クロはなかなか気の強い猫で、あとからやってきた他の猫たちとは常に一線を引いていたし、気に入らないことは絶対に受け入れようとしなかった。
 猫も白髪が増えるのか、それとも色素が減るのかはわからないけれども、年を重ねるにつれて、クロの毛色はどんどん薄くなり、錆猫の中でも色の薄い部類に入るようになった。こうなると、もう誰も黒猫だとは思わないだろう。
 元黒猫のクロは十数年僕たちと一緒に暮らしたあと、やがて僕たちの元を離れてお空で暮らすようになった。
 きっとお空でも、こんど来る猫はクロという名だから黒いのだろうと思って準備していただろうから、クロを見て、それほど黒くないじゃないかと驚かれたに違いない。

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