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ジャイアント・コーン

illustrated by スミタ2021 @good_god_gold

 退勤時刻が近づくにつれて木寺はつい顔がほころびそうになるのを抑えきれなくなっていた。上着の上からそっと手を当てて内ポケットの書類を確かめる。このあと、この書類を持って審査を受けに行くことになっているのだ。審査に何が必要かは全てわかっている。準備も終えている。引越し業者との打ち合わせはとっくに済んでいるし、今のところ役所からも特に連絡は入っていないから、あとはこの書類に承認印をもらいさえすれば問題なく引っ越せるだろう。この週末には家の片付けをあれこれと済ませるつもりだ。

 木寺は何気なくデスクの引き出しを開けた。ほとんど空になった引き出しの中で、ボールペンが数本ばかり転がるのいっしょに奥から小さな黄色い塊が出てきた。指先でつまみ上げる。ジャイアント・コーンだ。いったいどうやって引き出しの中に紛れ込んだのか。木寺はふっと鼻で笑い、南米からやって来たその実を足元の屑籠へ落とした。
 コトン。
 油で揚げられ、本来の姿を失ったそれは、堅く乾いた音を立てて屑籠の底へ転がった。

 木寺は来月から十一階に移ることになっている。十一階と言っても、もちろん住宅の話ではなく、生活階のことだ。
 移住許可証が届いたことを報告すると役員たちの息が一瞬止まりそうになったのがはっきりとわかった。
「じ、十一階?」
 役員の一人はそれだけを苦しそうに言ったあと、しばらく声を出せずに悶えていた。
 それもそうだろう。五階から六階へ、あるいは何か特別なことがあって七階へ移住するのならまだしも、いきなり十一階なのだ。木寺自身にさえまだ実感が湧いていない。先週、大きな案件に一区切りついたところで部長以上の社員が呼び集められ、大会議室で壮大な送別会が開かれたのも、木寺の行き先が十一階だからだ。
 もっとも、木寺に向けられる視線は応援や別れを惜しむものではなく、どちらかと言えば嫉妬と羨望の眼差しばかりだった。
「なんで木寺部長が十一階に? そういう家柄だっけ?」
「いやいや。それどころか、あの人、四階出身のはずだよ」
「どうせ政治家の尻拭いでもしてゴマを擦ったんだろう」
 どこからともなくヒソヒソ声が木寺の耳に入ってくるが、それは木寺の気分を害するどころか、かえって優越感をたっぷりと満たしてくれる。互いに居心地の悪さを感じたのか、社長のモゴモゴとした曖昧な挨拶が早々に行われると、送別会は予定よりもかなり早くお開きになった。
「えー、木寺君、誠におめでとう。上の階へ行ってもがんばってください。そして、私たちのことも機会があれば、ぜひ思い出してください」社長はそう言って木寺に目配せをする。
 自分を上の階へ招けというあからさまな要求に木寺は思わず苦笑した。

 階段世界。
 数度の人口爆発を繰り返した結果、地球にはもはや人類の住む場所がなくなりつつあった。国土を広げようと国境を争っても、ようやく手に入れた土地にもすでに住民が溢れている。各国は手を組み、なんとか人口を抑制しようとしたが、それでも人間の数は増え続け、次第にどこもまともな息ができないほどの超過密国家となりつつあった。
 もはや限界を超えている。
 そこで各国の政府が採ったのは、国土を縦方向へと拡張する道だった。もともと人々の暮らしていた土地の遥か上空に新たな地面を創り出し、そこへの移住を推し進めたのだ。
「この新しい土地を新階と命名します」
 国ごとに名称は多少異なったが、いずれにしても世界に二階が創られることになった。
 それは空の上に創られた新しい世界だった。
 王族貴族、高級官僚に政府関係者、資産家、大企業の役員や従業員たち。エリートや富裕層と呼ばれる、いわゆる上流階級に属する人々は過密する下界をあっさりと捨て、こぞって新階への移住を始めた。その結果、文字通り上流階級が上の階で暮らすことになり、なにも持たない市井の者だけがそのまま地上へ取り残された。
 だが、わずか数年で新階にも飽和の兆候が始まったため、各国政府はさらにその上へ新しい土地を創ることにした。こうして数世代を経る間に次々と新階が積み重ねられた結果、今では世界そのものが二十以上の生活階に分かれている。
 どの生活階にも家庭があり、企業があり工場があり、住宅や商店や公園があり、図書館や美術館などの設備もある。警察や消防、医療機関といった公的な仕組みや宗教施設なども同様で、一つの階で一つの世界が完全に成立していた。だから日々の暮らしの中では、自分の上や下に別の世界があると気づかされることはあまりない。 
 それでも人々は常に上の階へ関心を持ち、いつかは一つでも上の階で暮らしたいと考えていた。
「お前もがんばって上の階を目指すんだぞ」
 若いころからさんざん苦労を重ねて、ようやく四階から五階へ上がった父親からは、子供のころからうるさくそう言われ続けてきたし、その姿を見てきた木寺自身もいつかは自分も上の階へ、運が良ければさらにもう一つ上の階へ上がりたいと願っていた。
「そりゃあ同じ階で偉くなるのも悪くないが、やっぱり行けるものなら上の階へ行かなきゃな」
 父の言葉は呪いとして木寺にずっと纏わりついている。
 そのために地方の進学校から首都圏の一流大学へ進み、それなりに有名な大手企業へも就職した。エースというわけではないが、同期の中では出世も早いほうで四十を前にすでに部長職を担っているし、今暮らしているのは都心部にあるタワーマンションの高層階だから、どちらかと言えばこの世界では富裕層にあたるだろう。
 都市の夜景を一望できる部屋の窓から星空を見上げるたびに、その上にある別の世界を想った。このまま社内で出世を続けていれば、いずれはあそこへ行くことができるのだろうか。
「それじゃ足りないんだ」
 運と能力を持ち合わせた者が努力しても、一生をかけて一つ上の階へ上がるのが関の山で、たいていの者は生まれた階で生涯を終える。社会的に目覚ましい貢献をしたり、よほど特別な才能を持っていたりすれば、功労賞的にさらにもう一つ上へ行けることもあるが、それは一般の市民には関係の無い話だった。
「ふう」
 木寺は、ペコペコと頭を下げていた父の姿を思い出し、これまで上の階へ移住していった同僚や部下たちの振る舞いを思い浮かべ、そして大きな溜息をついた。やはり有力者の力添えがなければダメなのだろう。まして木寺は今でこそ五階で暮らしているが、もともとは四階の生まれだ。
 四階出身。その事実は様々な局面で大きな障壁となって横たわる。会社でもおそらく今の職位が最後になるだろう。下の階で生まれた者にこれ以上の出世は見込めない。
 あとは運良くスカウトに出逢うしか――。
「さすがにそれはありえないな」木寺は顔を上げた。
 建物の間から覗く空には月が出ていた。空といってもそれは天井に写し出された映像に過ぎず、ここから二十数階上のさらに上空で実際にはどんな空が広がっているのかはわからない。
 天井には目に見えないほどの小さな孔が無数に開いていて、雨はそこから降ってくる。地上に落ちた雨はやがて川となって海に至るが、その一部は流れの途中で、同じく無数の孔から下の階へ雨となって落ちていく。上から下へ。その流れに逆らうのは容易なことではない。

 木寺親子のように下の階から上がってくる者はいるので、自分より下の階ではどのような生活が営まれているかは誰もがある程度知っている。五階よりも四階、四階よりも三階。階が下がるにつれて世界全体が貧しくなり、治安も悪くなる。行政の仕組みは同じなのだが、そこにははっきりとした格差があった。もともと人類が暮らしていた地表は、今や世界の底辺となっている。さすがに木寺も一階で暮らしていた者と直接会ったことはないが、薄汚い埃とゴミに塗れ、凶悪犯罪の横行する絶望的な世界だと聞いていた。
「空気は煙でずっと濁ってるし、そのせいで空はいつも灰色にしか見えないのさ」
「人が死んでも一階ではそのまま放置されるから匂いが酷いんだ」
 そんな話を聞くたびに、もしも何かの手違いで一階へ行くことになったらと、幼いころの木寺は何度も身震いをしたのだった。
 一方、上の階での暮らしぶりについて、具体的なことはほとんど知られていない。
「たいして働かなくても報酬はたっぷりもらえるらしい」
「オレたちじゃ受けられないような高度な治療を受けることができるって」
「こっそり下の階へやってきて交通事故を起こしたのに、罪に問われなかったと聞いたぜ」
「ときどき停電が起きるのは、上の連中が電気を大量に使っているからだとさ」
 噂話に尾鰭がつきすぎて、もはや何が本当なのかはわからないが、とにかく上の連中には、自分たちには許されないことが許されるらしい。いつだってルールを作るのは上の階の住民なのだ。五階では中止になった国際的なスポーツイベントも上の階では実施されたという。
 空の上にある一つ先の世界。なんとしてでもそこへ行きたいと願う欲望とそこに暮らす者への怒りにも似た嫉妬が、人々の噂を加速させた。
「上の連中がいい暮らしをできるのは、下の階が少しずつ積み上げてきた富を吸い上げているからだ」
 はっきりとそう口にする者は少ないが、誰もがそのことには気づいている。
 いつの日か、一つでもいいから生活階を上げたい。その願いを叶えるために下の階の者はあくせくと働き続けるが、結局その働きは上の階の富と繁栄に貢献していた。もちろん五階の暮らしだって、一階から四階の人々による労働のおかげで成立しているのだが、自分たちのことは棚に上げるのが人の習わしだ。
 特殊な仕事にでも就いていない限り、上の階の者と接する可能性は二つしかない。
 一つは木寺親子とは逆に、何らかの事情で上の階から降りてきた者たちだ。だが、生活階を下げた者がそれを口にすることはないだろう。嫉妬心はすぐに暴走する。もしも上の階から来たことが発覚すれば、周りから寄ってたかって吊し上げられるに決まっている。それがわかっていて告白する者などいるはずもない。
 そしてもう一つがスカウトだ。理由はわからないが定期的に下の階で人材を探し、上に推薦するのだという。選ばれる基準もタイミングもまるでわからないが、そうやって五階へ上がってきた者がいることは確かで、同じように六階のスカウトもおそらく五階で人材を探しているはずだった。
 しかし。
「上の階を目指すことだけが人生なのだろうか」
 仕事が多忙になるたびに、あるいは取引先を接待するたびに木寺は自問自答した。多くの者は生まれた階で生涯を終えるのだ。四階で生まれた木寺が五階で暮らせているだけでも、充分に幸せなことかも知れない。しかもここまで出世したのだ。叶うことのない願いに振り回されてあくせく働き、愛想笑いを浮かべながら下げたくもない頭を下げるよりは、のんびり生きるほうがいいのではないか。信念を曲げ、プライドを捨て、やりたくもないことをやり、誰かに媚びへつらって上の階へ移住したとして、そこに何が残るというのか。
 だが亮子の考えは違った。
「一つ階が変わるだけで、ぜんぜん暮らしが変わるのよ」
「そんなことは知ってるよ。だから今日だって面倒くさかったけど、終わったあともカラオケにつきあってきたんだし」そう言いながら木寺はゴルフクラブを磨いている。
「そうやってイヤイヤやってる感じが相手に伝わっちゃうのよ。今日は役所の人だったんでしょ。だったら、もっと本気で接待しなさいよ」
「私だって私なりに本気でやってるんだ」木寺はムッとした声を出した。
「あなたがそんなことだから里桜だって私立は受けたくないなんて言い出すのよ」
「それとこれとは関係ないだろう」
「あの子はまだ何もわかってないの。ずっとこの階でいいわけないでしょ。今からちゃんと準備をしておけば、将来上の階に行きやすくなるじゃない」
 高校の同級生だった亮子の両親も四階の出身なのだが、二人とも若いうちに五階へ移住したので亮子自身は五階で生まれている。
「ねえ、聞いた? 渡師さんなんて、あの若さで六階へ行ったのよ。もしかしたらこの先、七階や八階まで行くかも知れないわ。きっと、お父様が儀礼官だからね」
 また始まった。周りの者が上の階へ移住するたびに、亮子はこうして木寺を詰るのだ。
「余所は余所、家は家だ。なるようになる」
 木寺はゴルフバッグのファスナーを閉じ、ソファ脇に置き直した。
「何言ってんのよ。あなたに七階なんて無理でしょ」
「私にだって可能性はあるよ」
「あなたにはないわよ。より上の階に移住できる人にはそれなりの資質っていうか、資格が要るのよ。法律なんかとは関係なしにね。それが世間の決まりなの」
 亮子のきつい口調に木寺の顔が曇る。
「はあ。やっぱり四階生まれの人と結婚するんじゃなかったわ。お母さんの言うことを聞いておけばよかった」
 木寺は黙り込んだ。それを言われては何も言い返すことができなかった。そればかりは自分ではどうすることもできないのだ。木寺にできるのはひたすら努力することだけだ。激しい出世競争に勝ち抜いてトップに立つか、有力者のコネを得るか。いずれにしても下げたくもない頭を下げ、場合によっては汚れ仕事さえ引き受ける覚悟が要る。四階生まれならなおさらだ。
 亮子は大きな溜息をついた。
「いいわ。あなたには無理でも、いつか里桜が私たちをずっと上の階へ連れて行ってくれるから」
「おい、自分の希望を子供に押しつけるな。里桜には里桜のやりたいことをさせるべきだろう」
 木寺はつい声を荒らげる。
「子供を上の階にやりたいっていうのがどうして押しつけなのよ。結局、あなたは負け犬でしょ。子供が上の階に行ったら自分が惨めになるから、ジャマをしてるのよ」
「その言い方はあんまりじゃないか。いちおう私だってここまで出世したんだぞ」
「五階でね。偉そうなことを言ったって、しょせん五階じゃないの。得意がるのはせめて六階へ移住してからにしてよね」
 亮子は冷たい目で木寺を一瞥してから、わざと大きな足音を立ててリビングを出て行った。
 それが昨年末のことだ。
 結婚して十四年連れ添ったが、次第に話が合わなくなり、結局、年明けからしばらく別居を続けていた。小学生の娘は妻とともにすぐ近くのマンションに暮らしている。
「これは里桜に。ホワイトデーだから」
 木寺はカフェのテーブルにカラフルな包装紙に包まれた小箱を置いた。細いグレーのリボンがかけられている。
「里桜に渡しておくわ」
 ひと月ぶりに会った亮子は思いのほか、やけに生き生きとしていた。
「あとこっちは君に」もう一つ小さな包みを置く。
「あら、ありがとう。でもこれで最後ね。この夏に、里桜と六階へ移住することになったから」
 木寺は鈍器で後から首を殴られた気がした。鈍い痛みが頭から背中に走る。
「ちょっと待ってくれ。それは本当なのか。いったいどうやって?」
「教える必要はないわ。それに、あなたは来られないの」
「どういう意味だよ」妙に粘っこい汗が木寺の額に浮かぶ。
「言ったでしょ。あなたには資格がないのよ。だって下の階で生まれたんですもの」
 亮子はバカにした目で木寺を笑った。

 その木寺が来月の半ばには十一階の住民として暮らし始めることになる。周りの嫉妬心を買いたくないので、あまり喜びを顔に出さないように気をつけているが、それでもついニヤけてしまうのはしかたのないことだった。
 亮子がこの話を聞けば、どんな顔をするだろうか。十一階へ行けることよりも亮子を見返せることが心地よかった。いや、亮子だけではない。ことあるごとに出身階の話を持ち出しては転勤に結びつけようとする人事部の連中や、カバン持ちのごとく扱おうとする取引先の役員たち、銀行のローン係、職務質問をしてくる警察官たち。四階出身というだけで距離を取ろうとする連中。彼らを見返してやれる。
 五階から六階へ移るのと、十一階へ移るのでは、まったく違う話なのだ。
 一階から十階、十一階から二十階、そして二十一階以上。階段世界はさらに大きく三つの階層にわかれていた。同じ階層の中で移住するのと階層を超えた移住とでは、エコノミークラスでの国内旅行とファーストクラスでの海外旅行、いや、宇宙旅行ほどの違いがある。
 階層を超えた世界での暮らしなど木寺にはまるで想像もできなかったし、そこの住民と出会うことも永遠にないと思っていた。どれほどがんばっても、せいぜい六階止まりだと考えていた自分が階層を超えていく。やはり興奮は抑え切れなかった。

 「たぶん今日が最後になるかもしれない」
 やけに勿体をつけた木寺の口ぶりにバーテンは僅かに眉をひそめた。
 マンションのすぐそばにあるこの店は、住宅地の一軒家を改装した造りになっていて、外からではバーだとわからないため、知る人ぞ知る隠れ家になっている。
 亮子たちと別居してからは、帰宅前にこの店で一杯やるのが木寺の日課になっていた。
「最後?」
「この間さぁ、ここで私に声かけてきた女の人がいただろ」そう言って木寺はウイスキーの入ったグラスを手元に寄せた。氷が動いてカラと音を立てる。
「ああ、なんか独特の雰囲気の。青い服の」
 木寺に返事をしながらバーテンは洗い終えたグラスを拭いて、背後の棚へ順番に並べていく。キン。薄いガラスの響き鳴る高音が耳に心地よい。
「そうそう。それがさ」
 急に小声になった木寺にバーテンは不思議そうに振り返り、そっと顔を寄せた。
「あの人、たぶんこれだったんだよ」
 木寺は人差し指を天井に向けて何度か動かしてみせた。
「ああ、やっぱりそうでしたか。なんかオーラあるなと思ったんですよね」
 納得の表情を見せたバーテンに向かって木寺は黙って頷く。
「じゃあ、もしかして木寺さん、あの女の人と?」
 バーテンはカウンターから半身を乗り出した。
「いやいや、そういう関係になったわけじゃないよ」
 木寺はニヤニヤしながらそこで言葉を切り、グラスに口をつけた。むせるようなアルコールの刺激が喉を灼く。やはりウイスキーは飲み慣れない。
「移住許可証が届いたんだ。ほら」
 木寺は胸ポケットから三つ折りになった許可証を取り出して、カウンターに滑らせた。パサッと擦れる音を微かに立てながら紙が開く。
「え? じ、十一?」覗き込んだバーテンの目が飛び出しそうなほど大く見開かれた。
「まぁ、だからここへ来られるのも最後かなと思ってね」
「これって普通じゃないですよ。あの人、何かすごい権力を持ってたんですか?」
「私にもわからないけどさ。ともかくあのあとすぐにこれが届いたんだ」
 木寺の鼻が膨らんだ。
「あとはこれに承認印をもらえばいつでも移住できるってわけ」
「すげぇなあ。奥さんはどうされるんです?」
「いちおうメールはしたんだけどね。来るんじゃないかな」
「さすがに十一階ですもんね」バーテンは呆れたように首を左右に振った。
「なになに? 木寺さん、あんた移住するのか」
 それまで耳をそばだてていた顔なじみの客が、我慢できなくなったらしく声をかけてきた。
「そうなんです、丸古さん。ちょっとしたご縁があって少し上に」
 さりげない口調で言ったつもりだが、どうしても得意げな声になる。
「そうかぁ。俺もいろいろ頑張ってきたんだけど、もうこの歳からじゃ無理だわな」
「マジで木寺さんすごいっすね。コネと金がなきゃ無理っすからね」
 二人組の若者も会話に入ってくる。
「俺らにはどっちもないからなあ。誰かコネのあるやついねぇかなあ」
「木寺さん、上へ行ったら俺たちを引き上げてくださいよお」若者は半分本気の口調で言った。
「しかも木寺さん、なんと十一階へ移住されるんですよ」バーテンが大袈裟に両手を広げる。
「ええええっ?」若者二人が声を揃えた。
「上の階って、六階じゃないのかよ!」
 どうやら誰もが呆気にとられたらしく、他の客たちもしばらく言葉を失っている。
「あの、木寺さんって、言っても大手企業の部長さんだろ。六階って話ならわかるけどさ、どうやったら十一階なんかに行けるんだ」ようやく丸古が不思議そうに聞いた。
「この間、私に声をかけてきた女性を覚えてます?」
「え? あの青い服の女っすか。ちょっとほっそりした。あの女が関係あるんすか」若者たちの目が妙にギラついている。
「うん。私にもはっきりわからないんだけどね、たぶん彼女が何かしてくれたように思う」
「あの娘、スカウトだったのか」丸古は納得したようにうんうんと頷いた。
「ひゃー、だったら俺たちが声をかければよかった」
「向こうから声をかけてきたんですよ、木寺さんに。あ、これサービスで」
 バーテンは客たちの前にピクルスの入った小皿を置いた。
「いやあ、モテる男は違うね。じゃあ、タッちゃん、カティーサークをボトルで。木寺さんのおごりだから」丸古が嬉しそうに言う。
「え?」
「いいだろう。なにせ十一階なんだからさぁ」
「ええ、まあ。まだ承認はされていませんが」そう言いつつ木寺も満更ではない顔になる。
「役所でハンコをもらうのは簡単らしいぜ。お偉いさんがあれこれ言うのをただハイハイと聞き流しておけばいいんだってさ」丸古がニヤリとした。
「質問も反論もしないのがポイントなんだとよ」
「肝に銘じておきます」いいことを聞いた。木寺は丸古に深く頭を下げた。
「やったー。じゃあ、今日は全部木寺さんのおごりっすね」
 やがてどんちゃん騒ぎが始まり、ふと気づけばもう明け方近くになっていた。
「うわっやけに冷えるな」店の前で丸古がぶるっと体を震わせた。
 もう三月も終わりだというのに凍り付くような冷気が顔に痛い。
「マジで上に行ったら俺らを引き上げてくださいよお」
「待ってますからね」そう言う若者たちに木寺はニッコリと笑顔を返した。
「それじゃ木寺さん、お元気で」バーテンとしっかり握手をする。おそらくもう二度と会うことはないだろうと木寺は思った。
 白い息を吐きながら、ふらつく足で家に帰り着いたときには、遠くの空がすでに薄っすらと明るみ始めていた。しばらくすると青白く燃え上がる小さな球体が東の地平線あたりに映し出された。上の階層では太陽はもっと大きくて、しかも赤い色をしているらしいが、想像がつかない。
 木寺はコートを脱ぎ捨てると、ネクタイを外すことさえせず酔ったままソファーに倒れ込んだ。次第に薄れていく意識の中で、青い服を着た女性の寂しげな顔がぼんやりと脳裏に浮かび上がる。
 私があの女性と出会ったのは偶然だったのだろうか。

 「木寺さんがウイスキーなんて珍しいですね」
 バーテンが目の前に置いたグラスの中で揺れる琥珀色の液体を、木寺はじっと見つめた。
「今日、久しぶりに妻に会ったんだけどさ、ちょっとショックなことがあって」
「ホワイトデーのプレゼントを拒否されたとか」
「いやあ、そっちは拒否されなかったんだけどね」
 ただ酔いたかった。木寺は軽く首を振ってからグラスに口をつけた。よくわかっているような顔はしているが、本当はウイスキーの味などまるでわからない。喉が灼けるのを感じるだけだ。
 だって下の階で生まれたんですもの。
 お通しのミックスナッツから、ジャイアント・コーンだけを選り分けて口に入れる。
「これってナッツなのかな?」ふと疑問を口にした。
「コーンだからナッツじゃないだろう」丸古が眉をひょいと上げた。
「ですよね。なのに、どうしてミックスナッツに入っているんでしょうね」
「成り行きだな、きっと」
「ははん、裏事情ってやつですね」バーテンダーも話を合わせてきた。
「そうそう。ジャイアンとコーンの二人がいてさ」
「偽物のナッツが本物の顔をして堂々と紛れ込んでやがるんだ」
「そもそも油で揚げられている時点で、もう本物のナッツじゃないからな」
 酔った頭でただ思いついたことを口にする。誰も正解など求めておらず、会話が続けばそれでいいのだ。
「こんばんは」
 不意にドアが開いて一人の女性が入ってきた。ほっそりとした顔立ちはどこか憂いを帯びていて、長いまつげがその表情をより悲しげに見せている。藍に近い青色のワンピースが薄暗いバーの中でもキラキラと光って見えた。
 上の階の住民だと木寺は直感的に感じとった。どこがどう違うのかをはっきり言うことは難しいが、彼女の纏う雰囲気が自分たちとはあきらかに違っていることだけはわかった。
「いらっしゃいませ。どうぞこちらへ」
 おそらく他の客たちも同じことを思ったのだろう。バーテンダーがカウンターの端に手を向けると、それまで散々バカ話をしていた客たちが次第に静かになっていく。
 おもむろにスツールへ腰を下ろした女性は小さな声でカクテルを注文し、バッグからスマホを取り出した。スマホのぼんやりとした淡い光が彼女の顔に影をつくる。
 それまで和気藹々としていたバーが妙な緊張感に包まれた。普段なら遠慮なく片端から女性に声をかける若者たちも遠目で彼女を眺めているだけだ。
「一つ階が変わるだけで、ぜんぜん暮らしが変わるのよ」
 亮子に言われなくとも、四階生まれの木寺はそのことをよく知っている。だが青い服を着た彼女は暮らしだけではなく、もっと根本的な何かが違っているように木寺には思えた。
 あれはスカウトだ。そう確信した。
 ふと手元を見るとグラスの中では氷がすっかり溶けて水になっている。
 もう一杯頼むか。ちょうど木寺が顔を上げたそのタイミングで、
「あの女性がお話しされたいそうです」音もなくすっと木寺に近づいたバーテンが耳元で囁いた。
 あまり顔を動かさないよう気をつけながら目の端でチラと女性を見ると、それを待っていたかのように彼女は立ち上がり、木寺の隣へ移ってくる。
「こんばんは」おっとりした口調だった。
「どうも」緊張して何を話せばいいのかわからない。
 木寺はバーテンに指で合図を出して酒を追加し、グラス半分ほどのウイスキーを一気に飲んだ。
「ふうう」鼻から息を吐くと気持ちがどうにか落ち着く。
「上の階からいらっしゃったんですよね」バーテンの耳にも届かないほどの小声で聞いた。
 彼女は何も答えず手元のカクテルに刺さったストローを口に含み、ひと口だけ飲む。
「スカウト、なんですね?」
 長いまつげがまっすぐ木寺に向けられたが、女性は黙ったまま静かに微笑むだけだった。
「実は私は四階出身なんです。そんな私でも六階へ移住できるのでしょうか?」
「四階出身?」
「ええ、そうです。だからいくら努力してもこの階では限界がある。これ以上はどうにもならないんです。だったらせめて上の階へ移住したい。見返してやりたいんです」
 あなたには資格がないのよ。
 酔いが回っているせいか、言葉が止まらなかった。
「下の階出身だからという理由だけで、ここから上の階へ移住できないのはおかしいじゃありませんか。本当にバカげた決まりですよ」
 木寺の話をじっと聞いていた彼女は、そっと首を傾げた。
「あなたも上の階へ移住したいの?」
「ええ、もちろんです」
「もし、その代わりに大切なものを失うとしたら?」
「大切なもの? 私にそんなものありませんよ。妻や子供とも別居しているし、両親ももういない。失うものなんてないんです。上の階へ移住できるのなら、全てを捨てても構わない」
 木寺はきっぱりと言い切った。
「四階は?」
「え?」
「大切なもの」
「そんなもの大切でもなんでもない。むしろ私にとっては邪魔でしかありません」
 彼女はクスリと笑った。
「決まりなんてないのよ。捨てられるどうか。それだけなの」
 そう言ったあと彼女はあらゆるものを吸い込む深い色を湛えた瞳で、しばらく木寺を見つめていた。やがて無言のままカウンターに札を二枚置くと、呆気にとられている木寺を残して、現れた時と同じように悠然とした姿を保ったままドアの向こうへ消えていった。
 それから二日も経たずに移住許可証が届いたのだから、やはりあの女性はスカウトだったのだと木寺は確信した。

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