セキュリティ対策
資料を送るからすぐに見て欲しいと言われ、古庄敏夫はリビングのソファに寝転んだままノートパソコンを開いた。
うっかり電話に出るんじゃなかった。たった一本の電話でせっかくのんびりしていた休日の午後が台無しになるのだ。指示を出すやつらは自分の好きなタイミングで指示を出せるが、指示される側の俺たちにはタイミングなど選べないのだ。そう思って古庄は鼻から息を吐いた。次は絶対に電話を無視してやる。
ポポッ。通知音が鳴った。メールが届いたらしい。
パソコンの画面に視線を向けた古庄は思わず苦笑いをした。
「ははは。まだ、これをやってるのかよ」
のっそりと上半身を起こし、首を左右に振る。
かつては情報漏洩対策として、暗号化されたファイルとパスワードを別々のメールで送信する方法を導入する企業もあったが、何の効果もないことが判明してからは、ほとんど使われなくなっている。未だにこのやりかたを続けている企業は、むしろセキュリティ対策のアップデートができない遅れた企業だと見做されるほどである。
「ダメな会社だな」
古庄はソファからゆっくりと起き上がってテーブルの上にパソコンを置くと、冷蔵庫から牛乳のパックを取り出した。グラスに注いで一気に飲み干す。
「ふう」
腹の底から息を吐いて、再びテーブルに戻った。
メールの件名には緊急とあるが、パスワードの書かれたメールがまだ届かないからどうしようもない。とりあえず動画サイトで動物の生態でも見るか。ウェブブラウザを立ち上げ、あらかじめ登録してあるサイトへのリンクをクリックすると、画面の中央にアカウント名とパスワードを入力するポップアップが表示された。カーソルをポップアップに合わせたところで、ポーンと電子音が鳴った。
「お、来たか」
画面をすばやくメールソフトに切り替えたが、新しいメールは届いていなかった。
「あれ?」
ポーン。また電子音が鳴った。
「ああ、こっちか」
古庄は口を半開きにしながら玄関を振り返った。電子音はドアチャイムのものだった。
「はいはい」
玄関口に立ってドア越しに返事をする。
「宅配です」
ドアスコープを覗くと、お馴染みのユニフォームを着た宅配員の姿がそこにあった。
「ごくろうさまです。そこに置いておいてください」
「これ直渡し指定なんですよ」
「そうなの?」
古庄はしぶしぶドアを開けた。
「すみませんね」
宅配員は帽子を取って軽く頭を下げた。古庄より一回り以上は年嵩に見える。すっかり日に焼けて浅黒くなった顔には深い皺が刻まれていた。
「パスワードだそうです。なんでも、ファイルを添付したメールとは別に送らなきゃいけないとのことでして」
思わず古庄の目が丸くなった。まさかパスワードを宅配で送ってくるとは思わなかった。たしかに連続してメールを送るよりはセキュリティ対策になるのだろうが、コストがかかりすぎじゃないか。ちゃんとしているんだかしていないんだか、よくわからない。
だったら最初から書類を宅配で送ればいいだろうに。古庄は内心で独り言ちたが、複雑な心情は顔に出さず、宅配員に笑顔を向けて大きくうなずいた。
「なるほど。わかりました」
ともかくパスワードは届いたのだから、これであのファイルは開けるのだ。
「それじゃお伝えしますね」
宅配員は帽子をしっかりと被り直した。いきなり瞳からふっと光が消え、虚ろになった目で宙をぼんやり見つめるようにしながら何かを呟き始める。
「hFO0CdpIa-x4vBM3piba」
「何? え? もう一回お願いします」
古庄はあたふたとして聞き直した。
「もう一回ですね。hFO0CdpIa-x4vBM3piba」
宅配員は、さっきと同じように宙をぼんやりと見つめたまま同じ言葉を繰り返す。
「いったい何ですか?」
「今のがパスワードです」
「それって、パスワードの書かれた紙か何かを渡してくれるんじゃないんですか?」
「セキュリティの問題から、書くことは禁止されていまして」
「えーっと、だったら俺が書き取るからもう一回お願いします」
古庄はあわてて部屋の中に戻り、書くものを探したが、こういうときに限って適当なものが見つからない。カバンの中を引っ掻き回して見つけたボールペンと財布に入っていたコンビニのレシートを持って玄関へ向かった。
「お待たせしてすみません。それじゃお願いします」
ドアに押しつけたレシートの裏にボールペンの先端を当てる。
「hFO0CdpIa-x4vBM3piba」
「うわっ、早いです。もっとゆっくりお願いします。もう一度いいですか」
古庄は途中まで書き殴ったメモの文字を目でなぞりながら宅配員に言った。
だが宅配員は黙ったままだ。
古庄は宅配員に顔を向けた。なぜか彼は悲しそうな表情で首をゆっくりと左右に振っている。いったいどうしたんだ。古庄の首が僅かに傾く。
「三回までしかお伝えできないんです」
「え?」
「三回以上になると再発行していただく必要があります」
宅配員はそう言って手のひらサイズの小冊子を古庄に渡した。表紙にはパスワード再発行のお手続きと書かれている。パラパラと中を捲ってみると、どうやら特定のサイトにアクセスをして再発行の手続きをすることになるらしい。
「わざわざこんなことをしないとダメなの?」
「すみません。規則なので」
古庄は小冊子をパタと閉じて宅配員の前でヒラヒラと動かしてみせた。
「まあ、あなたに言ってもしかたないけどさ、これをくれるくらいなら、パスワードを紙でくれたらいいじゃないか」
「すみません」
宅配員は再び帽子を取って、こんどは深く頭を下げた。
ここから先は
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?