ニチャ手

 もう四十年近く前のことだろうか。ラジオ大阪で放送されていた深夜番組「鶴瓶・新野のぬかるみの世界」を僕はよく聞いていた。落語家と放送作家がその場の流れでただ雑談しているだけのように聞こえる番組は、なんだか近所のおじさんたちが喫茶店でやっているバカ話が耳に入ってくるような感覚があっておもしろかった。
 ラジオの深夜放送はフリートークが多めだけれども、それでもある程度はコーナーにわけられて、それぞれのコーナーごとにひとつの塊としてつくられている。ところが「ぬかるみ」には、そういった区切りがなくて、二人の雑談がどこまでも延々と続く番組で、それが僕にはとても新鮮だった。この人たちは雑談が仕事になっているのだと驚いたのだった。
 もちろん笑福亭鶴瓶のしゃべりは抜群におもしろいのだが、次々に話題を変えていく鶴瓶よりも、ねちっこく一つの話題に固執して、いちど別の話題になったあとも再び前の話題をぶり返す新野新の語り口調が好きで、なんとなく僕の性分に合っているなと感じていた。たぶん僕は同じ話をいつまでも繰り返すのが好きなのだろう。自分の話し方を考えてもそう思う。

 最近はポッドキャストだのクラブハウスだのスペースだのボイシーだのと音声メディアもいろいろあって、誰もが自由にコンテンツをつくり発信している。僕もときどき聞いているけれど、その多くも雑談だ。きっちり台本が書かれているものやコーナーに区切られているものは少なくて、一人ないし数人が行き先も定めずただ雑談をしている。
 実を言うと僕はこの手の雑談が苦手だ。知り合いでもない人のよくわからない会話を、しかもどんどん広がっていく話題をずっと聞かされるのはあまり好きじゃない。
 僕たちがふだんラジオ番組などで耳にするフリートークだって単なる雑談に聞こえるけれどもあれは商品なのだ。普通の会話を商品に変えることのできる一流のプロフェッショナルの雑談だから成立するのであって、僕たちの日常的な雑談とはまるで違う。本来、雑談がコンテンツとして成立するには、よほどテーマや視点がおもしろいか、語り手の口調に特徴があるか、コンテンツに異常なほどの熱量がこもっているかといった条件が必要で、そう簡単にできることではないのだ。
 僕もときおりトークイベントにかり出されることがあるけれども、流れのまま話があっちへ行ったりこっちへ行ったりして、結局何の話だったのかがわからなくなるのは嫌だから、自分がメインで話すときにはきっちり台本を書くことにしている。もちろんトークは生ものなので台本どおりに話す必要はないけれども、手元に台本があれば元々のテーマと話題がずれてきたと感じたときに、話題を元に戻すか、このまま行くかを判断できるし、少なくとも一定のクオリティは保つことができる。お客さんがいるイベントで一定のクオリティが保てないのは僕としては納得いかないのだ。

 ずいぶん話が逸れてしまった。ほらね。台本がないとこうなってしまうのだよ。文章はあとから修正できるけれど、トークではそうもいかないからたいへんなのだ。そもそもこの文章は「最近の僕の手」について書こうと思って書き始めたもので、それなのにまだその気配にさえ辿り着けていない。早く手の話に行かねば。先を急ごう。

 さて雑談がコンテンツとして成立していた「ぬかるみ」の話だ。
 低い声でボソボソと続けられる会話は、テーマや切り口が独特というわけでもなく、派手なリアクションがあるわけでもなかったが、じんわりと腹の底に届く低温の熱がこもっていた。語り手の二人だけでなく制作陣の中にもそういった熱が充分にあったのだろう。きっと僕のようなあの番組のリスナーは低温火傷をしていたのだ。
 あるとき新野新が「おじさんになると手がニチャニチャしてくる」と言い出した。「そのとおりや」と同意する鶴瓶。おじさんの手を「ニチャ手」と名付け、そのありようについて二人の雑談が続く。手がニチャニチャするという状況が僕にはまるで理解できないものの、「ニチャ手」を巡る二人のやりとりや体験談はおもしろかった。
 とはいえ「ニチャ手」はあくまでも二人の個人的な体験であって、おじさん一般に広げるのはちょっと乱暴じゃないだろうかと僕は思った。ところが「みんなもそのうちわかるやろ」と鶴瓶は言う。
 あれから四十年近くが経つ。
 あのとき二人が番組で言っていたことは正しかった。おじさんになると、手がニチャニチャしてくるのだ。そのことを僕はもう知っている。

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