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青色のミニバン

illustrated by スミタ2024 @good_god_gold

 傅の耳に届いたのは、革の緩んだ大太鼓を叩いたときに鳴るようなブワワンという、どこか間の抜けた音だったが、思わず振り返った傅の目に映った光景は、けっして間の抜けたものではなかった。
 花屋が配送に使っている青色のミニバンは激しいクラクションを馴らしながら急ブレーキを掛けて止まったものの、ボンネットにすくい上げられた隆の身体は二メートルも宙に舞い上がって、ダンダンダンと屋根を転がったあと、車の後ろへ落下した。アスファルトからぶわっと白い砂埃が立ったように見えた。
 傅は自分の背骨に沿って冷たい電気が流れ、腹の奥にズンと重い衝撃が加えられたような気がした。
 何もかもがゆっくりで、スローモーションを見ているかのようだった。
 住宅地を抜けるこの道はたいして幅もないし、ほとんど車通りもない。小学校の行き帰りにいつも通っているところだから、まさかこんなことが起きるとは誰も考えていなかった。
 考えていなかったが、起きたことに間違いはなかった。
 一緒に下校していた五人のうち、隆だけは道を横切ることができず、今は地面に転がっている。
 隆はどこか鈍いところがあって足も速くないから、いつもみんなのあとを追うのに精一杯で、さっきも
「ちょっと待って」
と、後ろで泣きそうな声を出していたのをみんなで無視して走ったのだった。
 遠くからやって来る青色のミニバンははっきりと見えていたし、今、道路を横切れば、隆はついて来られないかもしれないと誰もが予感していたはずだった。それでも四人は走った。
 そうじゃない。傅はギュッと拳を握りしめた。俺たちはわざと走ったんだ。隆がついて来られないタイミングだとわかっていて、わざと車の前を走り抜けたんだ。
 傅は鼻の奥に妙な苦さが広がるのを感じた。匂いではなく味だった。
 道路の端に立った四人は、友だちが目の前で車に跳ねられたのを目の当たりにしながら、ただ呆然と見ているだけだった。互いに顔を見合わせることもなく、ミニバンとその後ろで蹲っている隆をそれぞれじっと見つめているだけだった。
「ヤバ」
と、利揮が言った。
「ヤベぇよ」
 それは、大変だと声を上げたり、友だちの名前を呼んだりする前に、何か良くないものを感じとった心がうっかり吐き出した言葉のようで、確かにヤバいよなと傅も口には出さないものの同じように思っていた。
 早く隆を助けなきゃ。そう思っているのに身体は動かなかった。首を動かして周りにいる友だちを見ることさえできなかった。視線を逸らすこともできず、ただミニバンと隆を見ている。
 すぐに鉄板を激しく叩くような音とともにミニバンのドアが開き、千紗さんが飛び出してきた。小さな街だし、いつも花の配達にやって来るのは千紗さんだから、みんなも彼女をよく知っているし、彼女も子どもたちをよく知っていた。
 いつもニコニコしている千紗さんの顔からは色が消えていた。古い白黒写真の中にいる人みたいだと傅は思った。その写真に背景はなく千紗さんだけが写っていた。
「大丈夫ッ? 隆くんッ!」
 金切り声が住宅地に響き、傅はなぜかブルッと体を震わせた。
 それまでスローモーションだった白黒の世界が一気に時間と色を取りもどして動き始める。バサと音を立てて数羽の鳩が一斉に飛び立った。
 千紗さんは隆に駆け寄って、エプロンの胸ポケットからスマートフォンを取り出した。紺色のエプロンには白い文字で花屋の店名が書かれていて、白い紐と相まってきれいなコントラストを見せていた。
 指をスマートフォンのパネルに置いたまま、千紗さんはじっと画面を見つめていたが、焦点はどこにも合っていないように見えた。唇をブルブルと震わせ、目を何度もパチパチと瞬かせている。
「救急車だよ。救急車を呼ばなきゃ」
 傅はそう思ったが声に出すことはなかった。出そうとしても声が出なかった。
 いきなり千紗さんが顔をこちらに向けた。怒っているような悲しんでいるような、不思議な表情で四人をゆっくりと眺めてから、唇をギュッと噛んだ。眉間には深い皺ができて、今にも泣きそうだった。
 俺たちのせいなんだ。隆が轢かれたのは。千紗さんが轢いてしまったのは。
 初めからぜんぶなかったことにしたかった。俺だけでも隆と一緒に向こう側で車が通りすぎるのを待っていたら、こんなことにならなかったんだ。
 うっかり千紗さんと目が合いそうになって、傅は慌てて視線を逸らした。もうこれ以上、何も見たくなかった。
 千紗さんの足が一歩、こちらに向かって動いた瞬間、
「俺は知らねぇから」
と小さく呟いて、利揮がいきなり走り出した。釣られるようにほかの二人も妙な声を上げて走り出す。
 傅は動けなかった。いっしょにこの場から逃げ出したかったが、足が動かなかった。
 小さくなっていく三人の後ろ姿から視線を道路へ戻すと、千紗さんが隆を立たせているところだった。隆の服についた砂を千紗さんがパンパンと叩いて払うのを、隆はぼんやりと立ったまま見ている。膝がすりむけて血が赤く滲んでいた。数滴の血がつうっと垂れていたが、立つことはできるようだった。
 傅はもう一度、みんなが走り去ったほうへ顔を向けた。コンビニの先にある路地で曲がったらしく、もう誰の姿も見えなかった。道のずっと先にある山の上には、薄いオレンジ色の空が広がって、真っ白な半月が静かに浮かんでいた。
「傅くん」
 千紗さんに名前を呼ばれて傅はギクリと肩をふるわせた。首を回して道路を振り返ると、千紗さんが隆を抱き抱えるようにして、ゆっくりと路肩に向かって歩き始めていた。
 傅は自分が今にも泣き出しそうなのだとわかっていた。自分たちのせいで起きたことよりも、この場から逃げ出せなかったことが怖かった。
 よろよろと歩いている隆がすっとこちらを見た。身体を強張らせている傅に気づいたらしく、隆は傅を安心させるかのような優しい笑い方をして腰の辺りで小さく手を振った。唇が小さく動いている。
 大丈夫だよ。
 そう言っているのがわかったとたん、傅の視界が滲んでよく見えなくなった。はっきり見えないまま、傅はみんなが逃げた方角へ走り出した。
 もういやだ。俺のせいじゃない。俺たちのせいだけど、俺だけのせいじゃない。
 隆も千紗さんも消えてほしかった。青色のミニバンも、逃げて行った三人も消えてほしかった。
 走りながら何度も足が躓いて転びそうになった。それでも傅は走るのを止めず、息が切れるまで走り続けた。
 ようやく足を止めた傅は、苦しそうに肩で息をしたままブロック塀にもたれ掛かる。
「ちょっと待ってくれよ」
 どうしてこんなことになったんだよ。
 隆は明日、学校へ来るんだろうか。ケガはしていなかったのか。頭は打たなかったのか。
 千紗さんは警察に捕まるのだろうか。警察で俺たちのことを何て言うんだろうか。考えてもわからないことを繰り返し考え続けた。
 両膝に手を置いてしばらく上半身を折り曲げていた傅は、ゆっくりと頭を起こした。
「ちょっと待ってよ」
 隆がそう言ったときに、俺だけでも待ってやればよかったんだ。自分は待たなかったくせに、待ってくれって言ってるのか俺は。
 傅は目をゴシゴシと擦ってから首を振った。なんだか胸のつかえがすっと消えたような気がした。
 傅はブロック塀から身体を離し、今来た道を戻り始めた。足が重くて、もう走ることはできなかったが、それでもできるだけ早足で歩いた。
 ようやくさっきの場所へ戻ったときにはすっかり薄暗くなっていた。青色のミニバンも千紗さんの姿もなく、パトカーや救急車もいなかった。最初から何事もなかったかのように、静かな住宅地は静かなまま、ひっそりと夜を迎えようとしていた。
 道路を渡った向こう側に誰かがぼんやり立ってこちらを見ている。
「隆?」
 声をかけると、人影がこくりと頷いた。
「大丈夫なのか?」
 傅は左右をしっかり確かめてから道路を横切り、隆に駆け寄った。
「ありがとう」
 隆が言った。
「え?」
「待ってくれたから」
 傅はその場に崩れるようにしゃがみ込むと隆の膝に手を当てた。擦りむけていたはずの膝には傷一つない。
「どうしたの?」
 隆が不思議そうな声を出した。
「だってお前さ、跳ねられただろ、花屋の車に」
「えっ? 僕が?」
 隆の目が丸くなった。
「そうだよ。道を渡ろうとして」
「僕、ちょっと待ってって言ったじゃん」
「言ったけど」
「それで渡らずにずっと待ってたんだよ」
 そう言って隆は口を軽く尖らせた。
「それじゃあ千紗さんは?」
「花屋の? 知ってるよ」
「そうじゃなくてさ」
 どうも話が噛み合わなかった。何が起きたのか傅にはまるでわからなかった。それでも、ここに戻ってきて良かったんだと思った。待ってくれと言われた場所へ戻ってきて良かったんだと思った。
「帰ろうよ」
 隆が言った。嬉しそうな口調だった。
 その言葉を聞いた傅は急に目の奥がカッと熱くなったように感じた。
 込み上げてくるものをどうしても抑えられず、傅は大声を上げて泣き始めた。しゃっくりが止まらなかった。

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