要求
テーブルに置かれた電話のベルが鳴り出すと室内に緊張感が走った。間違いなく犯人からの電話だろう。受話器に手を伸ばそうとソファから腰を浮かせた武已を、向かいの席から年配の警部がさっと制した。
「できるだけ、会話を引き延ばしてください」
「わかった」
武已は震える声でそう答えてから受話器を片手で掴み、意を決したように持ち上げた。受話器を耳に当てながら隣の妻にちらと目をやる。妻はさっきからずっと胸の前で手をきつく組んだままで、その目はどこでもない虚空を見つめているように思えた。
警部の隣では若い私服警察官がヘッドホンのイヤーカップを頭に押しつけるように両手で押さえている。彼の表情には、何一つ聞き逃さないという決意があった。
「もしもし」
冷静を装ったが声の震えは止められなかった。電話回線を通して相手に伝わりそうなほど心臓が激しく動悸している。
たった一代で世界有数の企業グループをつくりあげた武已は、交渉に長けた冷酷なビジネスマンとして知られているが、この場においては、予想外の事態にただ狼狽えているだけの中年男性に過ぎなかった。
「武已さんですね」
こいつが犯人なのか。武已の眉根が寄った。なんとも奇妙な声だった。機械でつくられているケロケロとした甲高い声からは、電話の主が男性なのか女性なのかわからない。
「ええ、武已です」
「こちらの用件はわかっていますね?」
警部が両の拳をぴたりと合わせてから、ゆっくりと左右に広げた。時間を引き延ばせということらしい。
待てよ、待てよ。いったいどうすればいいんだ。警部に向かって小刻みに何度か頷いたものの、武已の頭の中は完全に白紙状態になっていた。
「どうなんですか?」
「あ、すまない。ちょっと聞き逃した」
どこか狼狽した声になる。
「ですから、用件はわかっていますかと聞いたんです」
「用件だね、用件。そうそう、用件ね」
何も考えられず、武已はただ相手の言葉を繰り返した。
対立する企業と競争や外国政府との交渉であれば、なんということはない。今まで武已が何度もくぐり抜けてきた修羅場だ。ことビジネスであれば何があろうとも負ける気はしなかった。どんな卑怯な手を使ってでも必ず結果を手に入れる。それが武已という男だった。だが、これはちがう。
犯人から電話が架かってきたときに備えて、いろいろな受け答えのパターンを教わってはいたものの、いざとなると何一つ思い出せなかった。そもそも用件をわかっているかと聞かれるパターンなど教わらなかったじゃないか。こういうときはどう答えればいいんだ。わかっていると答えるべきなのか、用件そのものを答えるべきなのか。どちらを選ぶべきか。
思わず睨み付けるような視線を警部に向けると、彼は口を固く結んだまま大きく頷き、片手でガッツポーズをして見せた。
武已の額に浮かんでいた汗がすうっと引いた。そうか。これは語学と一緒だ。教わったパターンをいくら覚えても、実際に口に出す経験が伴わなければ会話は上手くならない。必要なのは実践練習だ。私にはそれが足りていないのだ。
「大丈夫ですか、武已さん? こちらの用件はわかっていますよね?」
「ちょっと練習不足でね」
「練習不足?」
機械の声が不穏な気配を含んだ。どうやらおかしなことを口走ってしまったようだ。
ここはもう一度質問を繰り返してもらうのがいいのだろうか。あるいはさっさと答えるべきなのか。ビジネスの現場ならすばやく回答して主導権を握る場面だ。だが。
警部からは会話を引き延ばせと言われている。そう簡単に答えてしまっていいのだろうか。さあ、どうする。武已はゆっくりと室内を見回した。
再び額に汗の球がじわりと浮き上がる。武已は左手で受話器を耳に当てたまま、右手で額の汗を拭いた。さらに受話器を持ち替え、こんどは左手で額の汗を拭う。
「練習不足?」
機械の声が重ねて聞いた。
「いや、違った。これは練習ではなく本番だったね」
「は?」
広い応接間には十名ほどの警察官が詰め、緊張した面持ちで武已を見つめている。ダイニングにもさらに十名ほどの警官が待機して、モニター越しに事の成り行きを見守っていた。
あの警官たちにも追加の飲み物を出さなきゃな。ふとそんな考えが武已の頭をよぎる。
壁時計の長針がカチリと音を立てて動いた。文字盤ははっきり見えているのに、なぜか時刻がわからない。ものが考えられなかった。
ここまで緊張したのはいつ以来だろうか。久しぶりに武已は軽い興奮を覚えていた。全身の血が逆流し、あらゆる毛が逆立つゾクリとした感覚。初めて敵対的買収に成功したときのあの興奮に似ていた。
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