見出し画像

名簿の人

illustrated by スミタ2024 @good_god_gold

 目を覚ました中村河たかねは、ベッドに入ったままスマートフォンをチェックした。専用のアプリを立ち上げると、ぼんやりと光る画面に顔を近づけ、届いている名簿にさっと目を通す。
 名簿に載っている十二人の中に、知っている名前はなかった。
 どこか安堵の気持ちを覚えながら、たかねは一人のチェックボックスをタップし、そのまま躊躇うことなく送信ボタンを指先で押す。
 ヒュンと風を切るような効果音が鳴ったあと、ご協力ありがとうございましたと書かれたウインドウがしばらく表示され、やがて消えた。
 名簿が届き、その中から一人を選び、送信する。毎朝のことだった。

 国民生活調査システム。
 十年ほど前から厚生労働省の始めたこのシステムには、十八歳以上の国民はすべて参加を義務づけられている。
 毎日届く名簿には名前と管理番号だけが記されていて、どこの誰なのかを正確に知ることはできなかったが、誰もが知っている著名な人物の名が載っていることもあって、当人なのか同姓同名の別人なのか判断がつかないこともあった。
 たかねのように専用のアプリを使っている者もいれば、昔ながらの電子メールやショートメッセンジャーを使っている者もいるが、いずれにしても名簿を受け取った者は、その中から一人を選択しなければならない。
 たとえ家族であっても誰を選んだのかを公表することは厳しく禁じられていた。また、誰も選ばないまま返信したり、届いた名簿を無視したりすれば、それなりの処罰を受けることになるため、多くの国民は表だって反対することはなく、毎日誰かを選び続けていた。名前を見てそこから選ぶことさえ面倒で、いつも名簿の最初の名前を選択する。そんなふうに決めている者さえいた。たかねはパッと見て、ちょっと読み方が難しそうな名前だなと感じた者を選ぶことにしていた。いちいち考えてなんかいられないのだ。

 毎日届く名簿は人によって異なっていた。
 誰かを選んで返信すればその時点で名簿は消滅するため、なかなか他人と比べることはできないが、たかねはいつだったか同僚と泊まりがけの出張へ出かけたときに、お互いのアプリに届いた名簿を見せ合ったことがあった。
「ぜんぜん違うんだ」
「ねー」
「みんな同じものが届いているのかと思ってた」
「ねー」
 しばらく名簿を見せ合ったあと、それぞれ自分の名簿から一人を選択して送信すると、もうその話題に戻ることはなかった。

 選択された者がどうなるのかは誰にもわからなかったが、七千万人の成人が一人ずつ誰かを選ぶのだから、毎日かなりの人数が選ばれていることはまちがいなかった。
「今回はあなたが選ばれました。お話を聞かせてくださいって役所の人が調査にくるのかな。だって生活調査システムでしょ」
 たかねはミルクティーに入れた角砂糖を溶かそうと、スプーンをグルグルと何度も回した。
「バカだな。人口管理に決まってるだろ」
 そう言ったのは以前の恋人だ。
「たくさんの人に選ばれた者は処分されるのさ。そうやって政府は国民の人口をコントロールしているんだ」
「えー、そんなことするのかな。だって人口減ってるんだよ」
 たかねが反論すると、彼は肩をすくめて口をへの字に曲げた。
「あのさ、世界ってそういうものなんだよ。俺の就活が上手くいかないのも、こうやって政府の陰謀を知ってしまって睨まれているからなんだ。みんな裏でつながっているんだ」 
 彼の就職活動が上手くいかないのは、そういう怪しげなサイトばかり見ているからだと、たかねは思っていたが口には出さなかった。

 毎日のように名簿が届き、その中から誰かを選ぶ。その繰り返しだ。自分が選んだ人がどうなるのかは考えないし、考えたくもなかった。けれども、選ばれるのはけっしていいことではない、それだけは予感があった。

 スマートフォンからプワンと軽い音が鳴って、今日の名簿が到着したことをアプリが告げた。今日もまた何も考えずに誰かを選ぶのだ。考えてもしかたのないことなのだ。ただ選ぶだけ。それでいい。
 窓に激しく打ちつける雨が、バタバタと大きな音を立てていた。ときおり雷も鳴っている。こんな日には一日中、家でゴロゴロとしていたいが、そういうわけにもいかない。今日の会議はオンラインではないのだ。
 化粧を終えてコーヒーマシンに豆をセットし終えたたかねは、テーブルのスマートフォンを手に取ってアプリを開いた。表示された今日の名簿に軽く目をやって、たかねは一瞬、立ちくらみを覚えたような気がした。もう一度、名簿を見直す。
 見まちがいではなかった。ビクンと身体が跳ねた。目を大きく見開き、息を飲む。
「これって」
 思わず言葉がこぼれた。十二の名前はすべて同じものだった。

 中村河たかね  中村河たかね  中村河たかね  中村河たかね
 中村河たかね  中村河たかね  中村河たかね  中村河たかね
 中村河たかね  中村河たかね  中村河たかね  中村河たかね

 たかねは自分の身体からすうっと体温が抜けていくのを感じた。手先と足先が冷たくなっている。
 どうしてこうなったんだろう。アプリに問題があるのかもしれない。たかねはアプリを一度閉じ、スマートフォンを再起動した。
 ゆっくりと進むステータスバーが表示され、やがてスマートフォンが起動した。再びアプリを立ち上げて名簿を開く。
 何も変わってはいなかった。十二の名前はすべてたかねのままだった。

 これだけ毎日名簿が来れば、いつか偶然に自分の名前が名簿に載ることだってあるだろうとは思っていた。けれども全部が同じ名前だなんてことは、これまでにもなかったのだ。よりによってそれが自分の名前だなんて。
「ここから、選ぶの?」
 選ばないわけにはいかなかった。選ばなかったり放置したりすれば罰則があるのだ。けれども、どれを選べばいいのだろうか。罰則を受けるのと、名簿で選ばれるのとでは、どちらがいいのだろうか。いや、どちらがましなのだろうか。いくら考えてもわからなかった。

 名簿をよく見ると管理番号はそれぞれ違っている。つまり、おそらくこれは同姓同名の他人なのだ。それでもすべて同じにしか見えなかった。しかも、もしかしたらこの中には、自分自身だって含まれているかもしれないのだ。だんだんぜんぶが自分に見えてくる。
 たかねは、スマートフォンをテーブルに置き直し、名簿を覗き込んだ。
 部屋の中にコーヒーの香りが広がっている。
 ふう。香りをゆっくりと吸い込んでから深く息を吐いた。じっと画面を見つめた目は動かない。
 いつもなら何も考えず、適当に誰かを選んで送信するのに、自分と同じ名前が表示されたとたん、何も選べなくなってしまったのだ。これまで気軽に選んでいたけれども、誰かを選ぶのってこういうことだったのか。
 どうすればいいのかわからない。泣きたかった。誰かに相談したかった。
「ああ、そうなんだ」
 誰かに届いた名簿の中に私の名前があっても、きっとみんな気にしない。もちろん、たかねを知る者なら、それが同姓同名だとわかっていても選ぶことはないだろうが、そうでなければただ適当に選ぶだけだ。いつも名簿の先頭を選ぶ者はきっと先頭を選ぶし、いつも難しそうな名前を選ぶ者は今日も同じようにするだけだ。
 そうやって、誰かが選ばれる。そうやって、たかねも選ばれる。 

ここから先は

448字
この記事のみ ¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?