負けられない戦い

 絶対に負けられない戦いがある。
 これはたしか、サッカーのワールドカップを放送したテレビ局が宣伝に使った惹句だったように記憶している。けれども、サッカーは絶対に負けられないものではない。もちろん勝つに越したことはないし、選手も応援する者も勝ちたいと強く願うが、スポーツなのだから勝ち負けがある。絶対に負けられないのなら優勝しかないが、残念ながら本邦の代表チームは優勝していない。負けているのだ。絶対ではないのだ。
 絶対に負けられない戦いとはそんなものじゃない。ではそれはいったいどういう戦いなのか。
 便意との戦いである。これは負けるわけにはいかない。絶対である。絶対の絶対に負けられないのである。

 小さな街を訪れていたときのことである。腹部に微かな違和感を覚えた僕は、運転していた車をそっと路肩に寄せて駐めた。違和感はしだいに強い確信に変わり、やがて腹痛が襲いかかってきた。繰り返し訪れる波。寄せては返す痛みの波である。体を折り曲げるようにして激しい痛みをなんとか耐え忍ぶ。しばらく堪えているうちに波は去っていったが、これで終わらないのだと、僕は長年の経験からわかっていた。
 大切なのはこのあとの迅速な動きである。次に来るのは便意だ。まちがいない。ここは山間を抜ける道である。周りには何もない。できるだけ早く手洗いのある場所へ移動しなければならない。駅だ。そういえば鉄道の駅が近くにある。僕は急いでエンジンを掛け、車を駅へ向けた。

 カーナビがまもなく駅だと告げるのと同時に来た。予想通り便意がやって来たのである。だが、これはまだやり過ごせるレベルだ。このまま便意を適当にあしらいつつ駅に着けば何とかなる。しかし交通ルールは遵守である。こんなときだからこそ遵守なのだ。もしも何かあれば、何かでは済まない。その何かを超える恐ろしい結末が待っているのだ。
 丁寧な運転を心がける僕をあざ笑うかのように便意は勢力を増していく。だが負けるわけにはいかないのだ。絶対に。

 ようやく駅前に差し掛かったものの、予想以上に寂れていて何もない。さすがは小さな街の駅である。せめてコンビニの一軒でもあるかと思っていたが、廃業したラーメン屋とカラオケ店、シャッターの降りた洋品店くらいしかない。雑居ビルにずらりと並んだスナックの看板は、どれもアクリル板が割れてひびが入っている。これはまずい。非常にまずい。だが大丈夫だ。僕にはまだ駅そのものがあるのだから。

 車を駅のロータリーへ進め、駐車スペースに車を駐めた。こういうところは小さな駅の利点だ。都内の大きな駅であれば駐車場を探す間に時間切れになってしまうだろう。あらかじめ負けの決まった試合のようなものである。しかし僕はもう駅に着いた。勝利は目の前にある。
 車を降りて僕はゆっくりと駅へ向かって歩き始める。急いではいけない。ゆっくりでいい。むしろゆっくりでなければならない。慌てず慎重にゴールを定めればいい。慌てれば確実に便意が猛威を揮ってくる。やつは一瞬の隙を見逃さないのだ。

 だが。だがである。駅舎の庇をくぐったところで、僕の戦略は大きな方針転換を余儀なくされることになったのだ。なんと駅の待合室に手洗いはなかったのである。便意よ、少し待ってくれ。立て直す時間をくれ。
 ふと目をやるとガラス窓の向こうから駅員が狼狽える僕を見ていた。
「すみません。手洗いを使いたいのです」
「切符を買って改札を通ってください」
券売機はあるが、どうやら現金しか使えないようである。
「PASMOは使えますか」
「現金だけです」
「手洗いをなんとか。かなり危険なのです。もう負けそうなのです」
「すみません。現金で切符を買ってください。規則なので」
 僕はすぐに撤退を決めた。額にはすでに異様な汗玉が浮かんでいる。ここでのやりとりに時間を費やしたくはなかった。何が規則だこの堅物野郎め。緊急事態なのだぞ。世界の終わりが訪れようとしていても、お前は規則を優先するのか。頭の中で悪態をつきながら、僕は来たときよりもさらにゆっくりとした動きで車へ戻る。シートに腰を下ろすと、さらに激しい便意が渦のように下腹部を走り回る。
「ふあうっ!」
 いきなり手応えのある便意が訪れた。ダムの決壊する映像が頭に浮かび、アラートが鳴り響く。僕の脳内で瞬時に計算が始まった。
 たしかこの先の県道沿いには、大きなスーパーがあったはずだ。あそこへ辿り着くことができれば、確実に手洗いを使えるだろう。問題はこの手応えである。残り時間はあとどのくらいだろうか。僕はどこまで持ちこたえられるだろうか。もうすべてを諦めてもいいんじゃないだろうか。ここまで耐えたのだ。よくやったじゃないか。
 いやダメだ。やはり負けるわけにはいかない。

 県道に向かって車が滑り出す。こういうときに限ってすべての信号が赤信号になるような気がするのはなぜなのか。こういうときに限ってやたらと遅い車が前を走るのはなぜなのか。わかっている。気のせいなのだとはわかっているが、どうしてもそんなふうに感じられてならない。ペダルを踏まない側の足で貧乏揺すりを始める。僅かな気の緩みが敵のゴールを許し、一気にすべてを失ってしまう。少しでも便意を逸らすために、まるで別のことを考えたいのだが、もう頭の中はダムの崩壊で一杯になっている。崩壊した先に待つ村の悲劇。飲み込まれる家々。逃げ惑う人々。その上空を舞うトンビ。世界を見下ろすように浮かぶ千切れた白い雲。遠くに見える山影。そして、スーパーの大きな看板。
「ああ、着いた。着いたよ」
 巨大な駐車場の奥へ進み、できるだけ入り口に近いところへ車を駐める。もう何も考えられない。ゆっくりだ。ゆっくりでいい。ここからはさらに慎重な動きが求められるのだ。

ここから先は

308字
この記事のみ ¥ 160

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?