入れ替わったら
illustrated by スミタ2021 @good_god_gold
そういえば、さっきからどこか遠くで音楽が鳴っているような気がしていた。曲には聞き覚えがある。里桜はぼんやりとした頭で思い出そうとした。たしか、あの曲はいつもアラームに使っている曲だ。そう、アラームの曲。
里桜がハッと目を覚ましたときには、もうとっくに八時を回っていた。耳元ではスマートフォンがいつもの曲を流し続けている。
「なんで起こしてくれなかったの」
階下に叫びながら里桜はパジャマを脱ぎ捨て、急いで制服に着替えた。
「朝ご飯はどうするの」
「いらない」
「パンだけでも食べなさい」
「無理だって」
里桜は母親に大声でそう答えながら、とりあえず眉だけを手早く描いて鞄を手にすると、勢いよく玄関を飛び出した。
「いけない。遅刻だよぉ」
家の門を出てすぐ塀伝いに右へ曲がる。家の裏から近道へ抜けるつもりなのだ。
シャッ。急に二階の窓が開いて、母親が顔を覗かせた。
「里桜。ほらこれを」
母親が手にしていた食パンを投げると、食パンはフリスビーのように回転しながら里桜の目の前へ飛んでくる。
「えいっ」
走りながら反射的に飛び上がった里桜は、空中で食パンを器用に口で受け取った。ふわりと着地すると、そのままスピードを落とさずに走り続ける。口にくわえたままの食パンから甘いバターの香りが里桜の鼻に届いた。
「なるほど、そうだったのか」
ここまで原稿を書き進めたところで、丸古三千男はピシャリと手で膝を叩いた。遅刻しそうになって食パンをくわえたまま走るという状況が、これまでどうしても理解できなかったのだが、母親の投げたパンを口でくわえていたのか。ずいぶん長く作家業をやっているが、まだまだ知らないことばかりだと丸古は一人で大きくうなずいた。
そんな丸古の納得など関係なく里桜は走り続けている。裏道から公園を抜ければ、いつものバスに間に合うかも知れないのだ。丸古のことなど気にしてはいられない。
住宅街の端まで来たところで、里桜はタンッと足に力を込め、角を曲がろうとした。
「ああ、いかん」
丸古は思わず声を上げた。こういう設定で慌てて角を曲がった場合、たいてい誰かにぶつかるのだ。ぶつかる相手が良い奴ならまだしも、中途半端な不良にぶつかってしまうと、あれこれ揉める羽目になってめんどうくさい。しかも、その不良が数日後には雨の中で仔猫を拾ったりするのだ。それを見かけて恋心が芽生えようものなら、さらに話がややこしくなるばかりだ。
「ダメだ、ダメだ」
丸古は里桜が角を曲がらないように原稿を書き進めようとしたが、里桜のほうが一歩早かった。
力を込めた足で跳ねるようにして素早く体の向きを変えると、そのまま角を曲がる。
ガツン。
「痛っ」と思うまもなく、里桜の目の前が真っ暗になった。どうやら頭を何かに強くぶつけたらしい。真っ暗な視界の中でキラキラと星が瞬き、鼻の奥で血の匂いがする。
しだいに消えそうになる意識の中で、あのアラームの曲がどこからか聞こえているのを感じていた。
どれほどの時間が経ったのだろう。
いったい何が起きたのかまだわからず、里桜はしばらくぼんやりとしていたが、やがて目の前に誰かが倒れていることに気づいた。頭のそばには食パンが落ちている。
「え? 私?」
里桜は心臓がビクンと強い脈を打ったような気がした。
地面にぐったりと横たわっているのは、まちがいなく里桜だった。
「私が倒れている?」
鞄のポケットから転がり出たスマホが、あの曲をずっと流している。里桜はますます混乱した。あそこで倒れているのが私だとしたら、今それを見ているこの私は誰なんだろう。胸を締めつける恐怖がしだいに沸き起こってくる。どうしよう。どうしよう。
「ほら、言わんこっちゃない」
丸古はペンを置いて頭を抱えた。これはおそらく入れ替わりだろう。ああ、めんどうくさい。入れ替わった相手とのやりとりだの、どうやったら元に戻るだの、この先をあれこれ書かなければならないじゃないか。なんてことをしてくれたんだ。
「それにしても、いったい里桜は誰と入れ替わったんだ?」
丸古は再びペンを手に取り原稿用紙に向かった。
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