プロの対応
可児治夫は電話に出るかどうかでほんの少し迷ったが、残念ながら退社時刻まではまだしばらくあった。
「もしもし、可児です」
しかたなく受話器を上げて耳に当てる。
「営業三課の可児さん?」
「そうです」
「しのぶ産業の井塚です」
やけに神妙な声だった。
治夫はその場でぐっと背筋を伸ばした。しのぶ産業の井塚さんと言えば、業界でもよく知られたトラブル対応の第一人者だ。その人がこんな時間に電話をかけてくるとは、よほど重要な用件にちがいない。
「実は」
井塚はそこまで言って黙り込んだ。何かよくないことが起きたことは治夫にもわかった。
電話の向こうから何もかもが凍り付きそうな緊張感が伝わってくるが、具体的に何が起きているのかはまだわからない。
「どうなさったんですか」
とりあえず平静を装って聞く。
「まずはじめに深くお詫びを申し上げます」
「えっ?」
治夫は心臓がドクンと激しく動悸を打つのを感じた。
「この度は本当に申しわけございませんでした」
「何があったんです」
つうっと背中に冷たい汗が流れた。
「これから担当者と一緒に御社へお伺いして、あらためてお詫びをしたく」
「いやいやいや、その前に何の件で詫びられているのかがわからないと」
「ともかくすぐにお伺いいたします」
「ですが、もう金曜ですし、夕方ですし、まもなく勤務時間も終わりますし」
「十五分以内にお伺い致しますから」
井塚は頑として引かなかった。何が何でもこちらへ来て謝るという。
井塚ともう一人の若い男性は、応接室に飛び込むのとほとんど同時に膝をつき、床に頭を擦り付けた。
「本当に、本当に申しわけありませんでした」
「すみませんでした。これはほんの心ばかりですが」
そう言って、やたらと大きな菓子折を机に置く。
「いや、井塚さん。ちょっと待ってくださいよ。事情がわからないとこちらもお答えしようがありません」
治夫は椅子に座るよう二人を促し茶を勧めた。じっと深くうなだれている井塚の隣で、若い男性社員が手を伸ばして茶を啜る。確か新人の砂原だ。表面では神妙にしているが、目の奥にはどこか納得がいっていないような、不貞腐れた色が浮かんでいた。
「いったい何があったんですか」
応接室の雰囲気がやや落ち着いたところで治夫はあらためて聞いた。
「それはお話しできませんが、とにかくお詫びするほかありません」
顔が青ざめているだけでなく、唇も乾き切っているようだった。
「話せないとはどういう意味です?」
「とにかくお詫びいたします。ほらお前も謝るんだ」
井塚に強く背中を押された砂原は頭を下げ、そのまま応接机に額をぶつけた。ゴツンと鈍い音がする。
「本当にすみません。まさかあんなことが起きるなんて」
「あんなこと?」
「ほら、もっと詫びて」
井塚がさらに背中を押し、砂原の頭を机に打ちつけると、さっきよりも遥かに大きな音が響いた。顔を上げると割れた額から血が一筋流れている。
「どうしてこんなときに血なんか流すんだ」
井塚が静かに叱るのを尻目に、治夫は腕をぐいと組んだ。上から見下ろすように二人を眺める。
「ねえ、井塚さん。詫びられていることはわかりました。ですが、まずは何に対して詫びられているのかをご説明ください」
「それは」
井塚と砂原がそっと顔を見合わせた。二人とも唇を固く結び、そのまましばらく黙り込む。応接室の壁に掛かった時計の長針がカチリと音を立てて動いた。すっと二人の顔が正面を向く。
「いやもう、本当に申しわけありません」
「心よりお詫びいたします」
再び二人で同時に机に手をつき、深々と頭を下げた。
「参ったなあ。どうして説明してくださらないんですか」
「それをお話しするわけにはいかないのです。な」
井塚は砂原に視線をやった。
「はい。誰にも言えません。なにせ損害額が莫大ですし」
砂原の顔からは血の気が引いて真っ白になっている。
「おい、砂原ッ」井塚が声を荒らげ砂原の言葉を遮った。
「損害額が莫大?」
「ま、まさか、そんなことは言ってませんよ。言ってないだろ、砂原ッ」
「でも、部長。いくらなんでも人命のことくらいは」
「砂原ッ。いいからお前は黙っていろ」
「ですが一人二人じゃないんですよッ」砂原が真っ赤な目で井塚を睨む。膝の上に置かれた拳が激しく震えていた。
「黙れ黙れ黙れ黙れッ」井塚は素早く砂原の後頭部に手を回し、もう一方の手でしっかりと口を塞ぐ。
「んぐんぐんぐ」砂原が苦しそうに手足をバタバタさせた。
「じ、人命ですと?」治夫の眉間に皺が寄る。
「いえ、なんでもありません、なんでもありませんよ。人命じゃなくて甚平。そう、冬は甚平を羽織るのがいいなと、あはははは」井塚が奇妙な声で笑う。
「井塚さん、あなた何を仰ってるんですか?」
「いやあ、私にもわかりません、ええ。もうお手上げですよねえ」
そう言って井塚は両手を高く上げた。どうやら砂原も落ち着いたらしく、一緒に両手を高く上げる。
「とにかく、こうやってお詫びする以外にはないのです」
「本当に申しわけございませんでした」
二人は高く上げていた手をまたしても下ろし、頭を深く下げた。
「さっき仰っていた、あんなことが起きたというのは?」
そう言って治夫は砂原を軽く睨みつけるが、砂原は何も答えずただ頭を下げっぱなしにしている。
「いつかお話しできる日が来たらお話しいたしますが、今はとにかくお詫びするしかないのです」
井塚が悲しそうな顔をして首を振る。
これじゃ埒が明かない。治夫はゆっくり天井を見上げて大きな溜息をついた。シャンデリアの照明が眩しかった。これ以上やりとりをしても、おそらく何も聞き出せないだろう。
何もわからないまま、ただ時間だけがゆっくりと過ぎていく。
しばらく沈黙が続いた。治夫はふと壁の時計に目をやった。もうとっくに退社時刻を過ぎている。
「ふん」思わず治夫の鼻から息が漏れた。こんなことなら電話に出るんじゃなかった。
治夫は壁の時計を見つめながら、ぼんやりと井塚の様子を目の端に入れた。よほど辛いのだろう。井塚の表情からは心苦しさと疚しさと哀しさがはっきりと伝わってくる。その僅かな振る舞いから、どうにもならない気持ちを抑えているのがありありとわかった。
もうこのまま返してやってもいいんじゃないか。こんなに詫びているのだし、いずれ事情もわかるだろう。何よりも、これほどまで苦しそうにしている井塚の顔を見るのが居たたまれなくなりつつあった。
いきなりムードたっぷりのラテン音楽が応接室に鳴り響き、井塚が慌てた様子で上着の内ポケットから携帯電話を取り出した。静かな口調で電話に出る。
「はい、井塚です、はい、ええ」
治夫と佐原の目が井塚の口元に注がれる。
「え、違った?」それまで苦しそうに細められていた井塚の目が、丸く見開かれた。腰が浮き上がりそうになっている。
「本当に?」
井塚は勢いよく立ち上がった。
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