はたしてそんなことでいいのかと思いつつ

 子どものころ、うちにはテレビがなかったので、それほどCMをよく見ていたわけじゃないのだけれども、それでもときおり街の電気店や友だちの家で見るCMに驚いたり、ドキドキしたり、きれいだなあと感心したり。なんだろうこの人はと関心を持ったり、この曲いいなあと思ったりしていた。
 映画監督の卵みたいな人たちが商品そっちのけで映像を作っていたから、あまりにも映像がすごくて、広告は覚えているけれども商品名は覚えていないなんてこともよくあり、はたして企業側はそんなことでいいのかとも思うが、たぶんそれでもよかったのだろう。
 雑誌の広告やポスターなんかも同じで、パッと見ただけではわけがわからないけれどもすごくインパクトのあるものや、まったく見知らぬ国で見たことのない衣装を着ている人たちが織りなす不思議な光景なんかが、いつまでも心に残っていた。僕がカンディンスキーやウォーホール、サッチモなんかを知ったのは、まちがいなく広告がきっかけだった。
 いろいろな企業が広報誌を出していて、そこには僕の好きな作家たちが小説だったりエッセイだったり、内容はさまざまだったけれども、何かしらの短い文章を毎月競い合うように載せていたし、ちょっとした家電のカタログなんかにもそういう人たちの文章が載っていることがあったから、僕はそうした文章が読みたくて家電量販店でカタログを集めていた。
 イラストレーターや写真家、音楽家、あるいは文筆家など、広告がきっかけで世に出たアーティストもたくさんいて、とにかくその当時は、企業の払う広告費が芸術や文化の育成に少なからずつながっていたように思う。
 僕が子どものころは、いわゆるバブル期の直前で、実際にお金があったのかどうかはわからないけれども、お金があるということになっていて、そのお金が広告費にもドンドン使われていたのだろう。
 あのころはよかったとノスタルジックに語るのは、まちがいなく歳をとった証左で、きっとこの僕の文章もオッサンの戯れ言なのだろうけれど、それにしても昨今のWEB広告は、やっぱり辛いのだ。
 いかにクリックさせるか、いかに目を惹くか、ときには間違って押してしまうようなボタンを用意してまでリンク先へ飛ばそうとする。そんな技術ばかりが発達して、それはもちろん合理化だのコストパフォーマンスだのといった言葉に収斂されるものなのだろうけれど、僕はそうしたテクニックをあまり好きにはなれない。
 ついにネット広告費が従来のマス媒体の広告費を上回ったらしい。でも、今のネット広告は芸術や文化の育成にどれほどつながっているのだろうか。
 ただ僕がオッサンだから知らないだけであって欲しい。
 僕の知らないところでたくさんのアーティストたちがネット広告をきっかけに世に出て、世界をどんどん更新してくれていると嬉しいが、合理化やコストパフォーマンスを追い求めるネット広告の世界に、そういう余裕があるのだろうか。
 商品名は覚えていないけれど、あの絵は覚えている、あの曲は心に残っている、そんな広告を僕は見たいのだ。はたしてそんなことでいいのかとも思いつつ、いや、それでいいのだと言い切れる企業がネットの世界にもちゃんといてくれることを願う。

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