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荷物

illustrated by スミタ2024 @good_god_gold

 関係者用の駐車場に車を駐めた甲斐寺は、バックドアを開けてギグバッグを引き寄せるとストラップの金具とファスナーをしっかり確認した。うっかり中身が飛び出そうものなら取り返しのつかないことになる。
 ESPのスナッパー・カスタムモデル。一般的なギターには六本の弦が張られているが、このスナッパーは弦が七本あり、通常よりも低い音を出すことができる。
 本当ならコンサートの初日からこのギターを使いたかったのだが、思いのほかメンテナンスに時間がかかり、今日になってようやく手元に戻ってきたのだった。もちろん同じものをサブギターとして用意してあるのでプレーに問題はないのだが、やはりギターは一本ずつ個性が違っていて、甲斐寺の手にはこの一本がよく馴染んでいた。
 荷物はこれがすべてだ。だが、少なくはない。
 四日連続公演の二日目だから、必要なものはすべて会場の中でセッティングを終えた状態になっている。足りなかったのはこのギターだけだった。
「あ、今着いたよ」
 携帯電話でマネージャーに連絡を入れる。いつもなら一緒に会場へ入るのだが、今日は甲斐寺が自分でギターを受け取りに行きたいと強く頼んだので別行動になっていた。
「ああ、ちゃんと仕上がってた」
 甲斐寺はギターを肩にかけたまま駐車場をゆっくりと歩き、関係者入り口からコンサートホールの中へ入った。
「いや、いいよ、別に降りてこなくても。もう受付まで来ちゃったから、このまま直接楽屋へ行くさ」
 受付窓の奥にいる若い警備員にひょいと頭を下げる。
「おはようございます」
「あ、はい、おはようございます。ご関係者の方ですか?」
「ええ」
 甲斐寺はおかしそうに口元を緩めた。昨日から催されているのは甲斐寺傅ソロコンサートである。甲斐寺が関係者でなければ誰が関係者だというのだろう。もっとも自分を知らないからといって彼が憤ることはない。
「それじゃ、こちらにお名前をご記入ください」
「ここに?」
 甲斐寺は興味深げに入出管理ノートを覗き込んだ。普段はマネージャーやスタッフがすべての段取りを行ってくれるので、こういうノートがあることさえ知らなかったのだ。
 ノートの端には一本の細い紐がナイロンテープで留められており、その紐の先にはボールペンが結びつけられている。
 雑に引かれた罫線の隙間に名前を書いたあと、少し悩んでから所属しているレコード会社の名を書いた。
「えーっと、携帯電話の番号も?」
「はい、緊急時に備えてお願いしています」
「いや、それはちょっとどうだろうか」
 甲斐寺に連絡が来るような緊急事態があるとは思えない。
「ですが、決まりなので」
 そう言いながら警備員は、たった今ノートに書き込まれたばかりの名前に目をやった。
「えっ、えっ、えっ」
 目を丸くして甲斐寺を指差した。
「そうなんですか?」
「そうなんですよ」
 甲斐寺は真顔でうなずくと、同じように自分を指差す。
「うわあ、すみませんでした。失礼しました。レコードも何枚か持っていました」
 慌てたように胸の前で手をバタバタと振る。
 おいおい過去形かよ、と腹の内では思ったものの口には出さず
「ホント? ありがと」
 と、甲斐寺は笑顔になった。
「本当にすみませんでした。ぜんぜん気づかなくて」
「大丈夫だよ、気にしないで」
 どれほどヒット曲があっても顔まで知られているとは限らない。特にテレビに一切出演しない甲斐寺のようなミュージシャンは、あえて顔を知られないようにしているところもあって、だから街の中で気づかれることもほとんどない。
「仕事があるから客席には行けませんけど」
 そう言ってチラリと警備室の奥にあるモニタに顔を向けた。
 なるほど、コンサートホールの警備員ってのはそういう役得があるわけだな。
 感心したように甲斐寺は何度かうなずいた。たしかにあの小さなモニタで見ているだけじゃ、オレの顔なんてわからないだろうな。
「おはようございます。あのう、甲斐寺さんですか?」
 ふいに声が聞こえて廊下の奥を見やった。小柄な若い女性がこちらをじっと窺っている。
 黒いジーンズに黒いTシャツと黒いジャンパー。いかにもコンサートのスタッフらしい格好をしているが、彼女に見覚えはなかった。
「君は?」
「あ、今日から入った運営のアルバイトです」
「オレが甲斐寺だよ」
「ああ、よかった。甲斐寺さんなんですね」
 彼は思わず苦笑した。オレのコンサートスタッフなのにオレの顔を知らないのか。まあ、アルバイトってのはそんなもんだろうなと、一人で肩をすくめる。
 彼女は小走りで甲斐寺に近寄ると、ぺこりと頭を下げた。
「下で見て来いと言われて」
 どうやらなかなか楽屋に現れないのを心配した担当者が迎えに寄越したらしい。
「ははは。これを書いたらすぐに行くよ」
 ノートを指した。
「あ、だったら私が書き込んでおきますので、すぐ楽屋へ行ってください」
 物怖じせずに指示するあたりが今どきの若者らしい。
「悪いね、それじゃ頼むよ」
 甲斐寺は自分の娘と変わらない年頃のスタッフに軽く頭を下げると、ギグバッグを肩に担ぎ直した。
 エレベータで三階まであがると、すぐ目の前にある部屋のドアを開けた。個人用の控え室ではなく、スタッフが集まっている大部屋だ。まずはスタッフたちに声をかけるのが甲斐寺のスタイルだった。
「おはよう」
「おはようございます」
 その場にいる全員がハキハキとした声を上げながらドアへ顔を向け、そのまま困惑した顔つきになった。
「あれ誰?」
「わかんない」
 ヒソヒソ声で囁き合っている。
 甲斐寺もまた怪訝な顔つきになった。長年一緒に仕事をしてきた顔見知りのスタッフたちが、不思議そうにこちらを見ているのだ。
「みんな、どうしたんだよ?」
 このまま中へ入るべきか、ドアの外に留まるべきかで一瞬、躊躇した。
「おう、おはよう。遅刻するんじゃないかとヒヤヒヤしたぞ」
 明るい声でそう言って、後ろから甲斐寺の肩をポンと叩いたのはシノブレコードの井塚だった。
「いやいや、オレは遅れたことなんてないだろ」
 振り返って井塚を軽く睨んだ。
「え?」
 井塚の表情が凍りつく。
「あのう、どちら様でしょうか?」
 辿々しい口調でそう言ってから、ゴクリと唾を飲んだ。
「なに言ってんだよ。オレだよ」
「えーっと」
 室内がシンと静まりかえった。スタッフたちが息を凝らしたまま、こちらを見ているのがわかる。甲斐寺は井塚の目を覗き込んだ。動揺と不安、そして驚愕の色が浮かんでいる。
 次の瞬間。
「はい、ドッキリでした!」
 井塚がそう言って全員が爆笑する展開になるのだろうと期待して待ったが、何も起こらないままだった。
 相変わらず硬い表情で井塚が首を小刻みに振っている。
「ちょっと待ってくれよ。オレだよ。甲斐寺傅だよ」
 ガッと素早く室内に足を踏み入れ、スタッフたちをぐるりと見回した。
「お前ら何を言ってんだよ。オレがわからないのか。甲斐寺だぞ」
 言っているうちに、だんだん声が荒くなってくる。
「ふざけるなよ。っていうか、昨日も一緒にここで仕事したじゃないか?」
 それでも誰も何も言わない。全員が怯えた表情のままじっと彼を見つめていた。
 いったいどうなってるんだ。何なんだ。そういう顔をされると、こっちまで怖くなってくるじゃないか。
「お前ら、冗談がひどすぎるぞ。こういうのは打ち上げの時にやれよ。本番前にこういうことをされるとオレの気分がおかしくなるだろ。いいかげんにしてくれ」
 振り返って井塚を睨みつけた。冗談ではなく、本気で睨んだ。
「あのう」
 井塚の隣にさっきの女性スタッフが立っている。入出管理ノートに記入を終えて戻ってきたのだろう。
「なんだ?」
「これ」
 彼女はそう言って甲斐寺に近づくとスマートフォンの画面を見せた。画面内ではインターネットの百科事典が開かれている。タイトルは甲斐寺傅と書かれていた。
「オレのページだろ」
「写真を見てください」
 彼女は表示されている写真を指で拡大した。
「誰だよ、これ?」
 甲斐寺傅として表示されているのは、見たこともない若い男性の顔写真だった。
「もちろん甲斐寺さんですよ」
「いや、これは違う。間違ってるよ」
「でもネットにそう出ています」
 彼女は首を振った。
「ネットに何が出ていようと関係ない。これはオレじゃない」
 甲斐寺は長机の上にそっとギグバッグを置いた。胃の中がやけに熱くなっている。まずは落ち着かないと。
「何かのまちがいだろう。ネットだからそういうこともあるさ」
 ゆっくりとした口調でそう言った。
「いいえ。いいですか、これが甲斐寺傅です」
 それまで二人のやりとりを窺っていた井塚が甲斐寺にぐっと近づき、自分のスマートフォンを見せた。
 若い男性の画像がずらりと並んでいる。検索欄には甲斐寺傅とあった。
「は?」
「どこでどう検索してもこの人の写真が出てきます。だから彼が甲斐寺傅なんですよ」
「じゃあオレは?」
「それは知りません。とにかくあなたは甲斐寺傅じゃない」
 井塚は呆れたように肩をすくめて首を振った。
 そんなバカな話があるか。甲斐寺の眉間にグッと皺が寄る。
「ちょっと待てよ井塚。オレたち高校時代からだろ。一緒に何十年やってきてんだよ。昨日だって終わってから飲みに行ったじゃないか」
 甲斐寺の大きな声でようやく我に返ったのか、井塚はまじまじと甲斐寺の顔を見つめた。そうして再び手元のスマートフォンに目を落とす。
「でも写真と違いますよね」
 ふいにさっきの女性スタッフ横から口を挟んだ。
「だから写真が間違いなんだよ」
「どうしてですか?」
 どうしてなのかは甲斐寺にもわからない。わからないが、誰だか知らない別の者の顔写真が、甲斐寺傅の顔としてネットに出回っていることは確からしい。 
 甲斐寺は再びスタッフを見回した。
「これだけ一緒に仕事をしているんだから、オレの顔くらいわかってるだろ。なんでネットの写真なんかを信用するんだよ」 
 スタッフたちが驚いたような表情で、互いに顔を見合わせる。
「だって、ネットには最新の情報が載るんですよ」
 彼女が言った。
「だから、またあなたの写真が載れば、みんなもあなたを甲斐寺さんだと思いますよ」
 頭を激しく殴られたような気分だった。甲斐寺は近くにあったパイプ椅子にふらふらと座り込んだ。なんだか足元にぽかりと穴が空いたようで、気を抜くとどこまでも落ちていきそうだった。
 誰も目の前にあるものなんて見ていないのか。今ここにいる人間よりも、あやふやな情報のほうが信用されるのか。
 
 ふいにドアの外から一人の若い男性が顔を覗かせた。
「やあみんな、おはよう。遅くなって悪いね」
「あ、おはようございます。今日もがんばります」
 その場にいる全員がドアへ顔を向け、ハキハキとした声で嬉しそうに挨拶を返す。
 ネットに顔写真の載っているあの男性だった。

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