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すべては一度きり

illustrated by スミタ2021 @good_god_gold

 彩は上半身を起こしてからカーテンの隙間へちらりと目をやった。窓の外はまだ真っ暗だ。そうして机の上で鳴り続けているスマートフォンを霞んだ目で訝しげに見つめる。
 無理。無理だ。ごめんなさい、無理です。でられません。
 実家からの電話だろうか。だったら、なおさら無理だ。
 昨夜は一人で酒を飲みながら、年越しライブのネット中継を遅くまで見ていたから、まだ身体が思うように動かないのだ。ううう、やっぱり無理だ。
 そのまましばらくベッドの中で粘っていると、やがて電話は鳴り止んだ。
 ふうっ。
 なんとか逃げ切れたみたい。やっぱり実家だろう。暮れに実家へ戻ったのに、父とも姉とも大喧嘩をして飛び出してきたのだ。今年の年末年始は一人で過ごすと決めていた。
 ほっとした彩が布団を頭から被ろうとしたところで再び電話が鳴り始めた。なんなのもう。うんざりした気分のまま、彩は這うようにベッドから抜け出し、スマホを手に取った。発信者に見覚えはなかった。
「街野です」
 できるだけ不機嫌な声を出して電話に出た途端「あああああ、よかったああ。つながったああ」と安堵の声がスピーカーから響き渡った。この声には聞き覚えがある。どうやらイタズラ電話ではなさそうだ。
「あの、街野です」
 彩はもう一度、今度は普通の声で名乗った。
「あ、丸古です」
「丸古課長?」
 どうして二課の課長が三課の私に電話を架けてきたんだろう。
「街野さんは今ご実家ですか?」
「いえ、寮です。小鴨寮にいますけど」
「あああ、よかったああああ。だったら本庁へ行ってもらえませんか。タクシーを使えば十分もかからないでしょう。比嘉課長にはあとから説明しますので」
「はあ」
「いやあ、年明け早々に本当に申しわけないんだけどね。ちょっとばかり問題が起きて」
「年明けって、まだ明けてませんよ」
「それが問題なんです」丸古が悲鳴に似た声を出す。
 いったい今何時なんだろう。彩は机の脇にある時計を見やったた。
「え?」
 午前七時四〇分を過ぎていた。まさか! 彩の全身にひやりと嫌な電気が走る。慌ててカーテンに駆け寄り引き開けるが、やはり窓の外は真っ暗なままだ。年末年始の澄み切った夜空に、いくつもの星が瞬いている。
「ひ、日の出は?」思わず彩も声が上擦った。
「そうなんです。今年の初日の出なのにこんなミスが起きたのです。たいへんなことなのです」
 彩は天候庁の職員だけに配布されている専用のカレンダーを見た。
 一月一日の日の出は午前六時五一分。もう一時間近く経っているのにまだ日が昇っていないなんて。
「丸古課長、これって」
「ええ、だからたいへんなのです」
 丸古課長の率いる天文二課は、天候庁の中でもかなり重要な役割を担っている。毎日の日出にっしゅつ日没にちぼつを担当しているのだ。太陽のりは予定通りにきっちりと運航しなければ社会生活にも経済にも大きな影響を及ぼすことになる。
「とにかくすぐに本庁へ向かってもらえませんか」
 丸古は泣きそうな声になっている。
「はあ」
 まだ詳しい状況はわからないまま、それでも彩は手早く着替えると部屋を飛び出した。
「うちの課の連中はほとんど帰省してしまっていてね。私も妻の実家でね。まあ、うちの課じゃなくても近くに誰かいれば頼むんですけど、とにかくすぐに本庁へ行けそうなのが街野さんだけで」
「泊まり担はいないんですか?」
「井塚くんが当直だったんだけどね」
「あの井塚次長が!」
 井塚はどんな仕事に関わっても必ず謝罪する羽目に陥ることで有名な上司である。
「どうやら大晦日に残っていた連中で集まって飲んだらしくてね。いま全員が救急病院に運ばれている」
「ええっ。何か変なものでも食べたんですか?」
「わからないんだよ。井塚君は、何を食べたかは言えないがとにかく申しわけありません、何を食べたかは言えないが本当にすみません、と謝るばかりでね」
 彩は一人で頷いた。さすがは井塚次長。やっぱり謝る羽目に陥ったのか。
 さっきから彩は電話をしながらタクシー配車のアプリを立ち上げて車を呼び出しているのだが、正月の、ましてや元旦に近くを走っているタクシーなどほとんどいない。
「すみません。なかなか近所にタクシーがいなくて」
「いやもう、少しくらい遅れたって構いません。街野さんだけが頼りですから。はははは」丸古はどこか吹っ切れたようだった。
「それにしてもどうして日が出なかったんですか。日出って前もってセットしてあるんですよね」
「それがね、実は部長なんです。来年、あ、もう今年だな、退職するから記念に来年の、つまり今年のね、初日の出は俺にやらせてくれと。それで納会のあとに最後のセットをされたんですよ。そこで何か間違いがあったんでしょうね」
「そのあと誰もチェックしなかったんですか」
「そんなことしたら部長の粗探しをしているみたいになりますから。それに納会もあったしねぇ」
「今の状況は部長に確認されているんですか?」
「そんな失礼なこと、できるわけないじゃないですか」
「はあ」彩は溜息をついた。
 ワガママと見栄とメンツとルール違反。たいていの大きなミスはそういうオジサンたちの勝手な運用が原因で起こるのだ。
「部長のことはともかく、他の国ではもうとっくに初日の出も終わっているのに、うちだけはまだなんて、こんなミスがあってはいけないんです。ですからとにかく頼みます」
 あってはいけないと課長は言うが、もうすでにミスは起きてしまっている。
「でもあの、丸古課長。私、研修で一度やっただけで、日出も日没もほとんどやり方を覚えていなくて」
「それは大丈夫。うちの飯尾君が電話で指示してくれますから」
「わかりました。それじゃ私は、本庁に着いたら二課の前で待っていればいいですか?」
「よろしくお願いします。飯尾君から電話がいきますから」
 結局タクシーを捕まえるまでに十五分ほど費やしてしまった。これなら走ったほうが早く着けたかも知れない。

 正月とはいえ、中央官庁にはそれなりに人が詰めている。電話や窓口での業務は止まっているが、国の運営が止まるわけではないし、ましてや天候庁は毎日の国民生活に関わる仕事をしているのだ、正月だからといって全員が休むわけにはいかない。
 それなのに。彩は二課のドア前に立って腕を組んだ。
 よりによって、日出と日没を担当する超重要部署の職員が全員いなくなるなんて。
 廊下の向こう側に見える窓からは隣のビルの明かりが見えていた。たとえ日が出ていなくとも、人々は光を灯して活動する。もう人間には夜と昼が同じものなのかも知れない。
 それでもやはり日が出ないのは問題なのだ。ドアの内側では引っ切りなしに電話が鳴り続けていた。おそらく日本中から初日の出が出ていないことへの問い合わせや苦情が押し寄せているのだろう。
「街野です」振動し始めたスマホに彩は素早く出た。
「ああ、街野さん。二課の飯尾です。なんだか面倒なことになってすまないね」
「いえ、大丈夫です。ただ日出のやり方がわからなくて」
「よし。じゃあ始めようか。部屋の中に入って操作盤の前へ行ってくれ」
「はい」
 教えられたとおりにドアの暗証番号を入力し、室内へ入ると鳴り続けている電話の音が耳を突き刺した。
 彩はスマホを当てていないほうの耳を片手で塞ぎながら操作盤の前に立ち、透明の蓋を勢いよく跳ね上げる。
 午前八時一四分。大きな窓から見える街の姿は時刻とは裏腹に完全な夜景のそれだ。
「着きました」
「それじゃ、日出と書いてあるブロックのスイッチを手動に切り替えて」
 スイッチを自動から手動へ。そうか、このあと私が手動で太陽を昇らせるのか。
「そうしたら、中央にある赤いダイヤルを回してくれ」
 彩は左手にスマホを持ち換え、右手でダイヤルを掴んだ。ドアノブよりも二回りほど大きいダイヤルには細かく目盛りが刻まれ、その中央には太陽高度と書かれたシールが貼られていた。そうだった。彩は研修でやったことを思いだした。これを回せば太陽が出るのだ。
「もう回していいんでしょうか?」
「何を待ってるんだよ。ほら、さっさと回して。もうとっくに日出の時刻は過ぎているんだからさあ」
 飯尾が苛ついた声を出す。
「はい」
 彩はダイヤルを一気に回した。
 バッ。
 一瞬にして窓の外が昼間になった。太陽が出たのだ。たった数秒前までの夜景が昼間の街の風景に変わっていた。
「こらあッ!」飯尾が電話越しに怒鳴った。
「何やってんだ! そんなに勢いよく出すな、バカ!」
「す、すみません」
 慌ててダイヤルを戻す。
 バッ。
 再び窓の外に夜が訪れた。昇った太陽が元の位置に戻ったのだ。今消したばかりの明かりを慌てて灯しているように、眼下の暗闇に新たな夜景がどんどん広がっていく。
「バカ、バカ、バカ。戻すやつがあるか!」
「でも」
 彩は不貞腐れた。担当でもないのに頼まれてやっているのだ。中央省庁の職員としての役目を果たそうとがんばっているのだ。それなのにバカってなに。
「いいか。ゆっくり回せ。目で確認しながらゆっくり回して、目盛りを三七まで進めたら、そこで止めるんだ。いいな、ゆっくりだぞ」
「ゆっくりですね」
「そう、三十秒くらいかけて回すつもりで」
 だったら最初からそう言えばいいのに。ちゃんと教えてくれなきゃ出来るわけがないじゃない。
 指先に神経を集中してダイヤルをゆっくりと回す。なぜか急に手に力が入って、勢いよくダイヤルを回しそうになる。力を入れてはいけないと思えば思うほど、力が入りそうになるから不思議だ。
 指定されたところまで目盛りを進めて手を離した。
「はあああっ」
 彩は思いきり空気を吐いた。どうやら自分でも気づかないうちに息を止めていたらしい。
「止めたか?」
「はい」
「じゃあ、さっきのスイッチを自動に戻して」
 スイッチを手動から自動へ。
「切り替えました」
「ああ、ありがとう。ご苦労さま」
 電話の向こうから飯尾のホッとした声が聞こえた。
「さっきは悪かったね、怒鳴ったりして」
「いえ、平気です」
 彩は窓の外を見た。冬の朝らしい柔らかな日の光が街を黄色く染めている。
 本来、日の出も日の入りも毎日それぞれ一回だけだ。見逃してしまえば二度とその日の日出や日没に出会うことはない。彩は窓に一歩近づき、遠くの街を見やった。日出や日没だけじゃない。すべては一度きりなのだ。

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