パワーは二倍
休日を前にした午後のオフィスには、のんびりとした気配が漂っていた。昨日あれほど激しく降っていた雨はもうすっかり止んで、窓から外を覗けば、濡れて黒々としたアスファルトの駐車場では、陽射しを反射する水溜まりがキラキラと眩しく光っている。やたらと広い駐車場の先に並ぶ工場の屋根は、いつもの通りくすんだ灰色をしていたが、その上に広がる真っ青な空が、まもなくやって来る暑い夏を感じさせた。
可児は大きく伸びをした。あと数時間で業務が終わる。基本的には前もって計画された通りに車を運行させるのが車両部の仕事で、今日は特に予定が入っていなかった。役員たちが急な外出をしなければ、このままのんびりと週末を迎えられるのだ。
誰かの席でラジオが鳴っていた。古いアメリカンポップスを紹介するDJの声も、心なしか弾んで聞こえる。
「明日って誰が出てるんだっけ?」
居室に入ってきた係長がぐるりと室内を見回した。くつろいでいた部員たちが一斉に顔を上げる。誰もが驚いた顔をしていた。
「あれ? 週末の予定はありませんけど?」
壁の予定表を指しながら答えたのは砂原だ。車両部では一番若手だがもともと車好きということもあって、いつも楽しそうにしているが、さすがに今は困惑顔だ。
「社長がゴルフに出かけるそうだ」
「えー、急だなあ」
「さっき秘書室が運行計画を出して来たんだよ、ほら」
係長は手にした紙の束をばさばさと振って見せた。
「今日の明日ですよ。それってルール違反じゃないですか。なあ?」
ベテランの古庄は口を尖らせながらそう言って、向かいの席にいる能雅と井間賀に同意を求めた。二人とも黙って大きくうなずく。
「予定が入ってなかったからシフトをずらして、みんな休むつもりだったんですよ」
「おいおいおい。ここは車両部だぞ。たとえ休日でも何があるかわからないんだから、誰かが待機しておかないとダメだろ」
「まいったなー」
古庄が肩をすくめる傍らで砂原がスマートフォンを覗き込む。
「俺、明日なら大丈夫です」
「おお、助かるよ」
係長の顔がぱっと明るくなった。
「ほかは誰が出られる?」
「ゴルフって、やっぱりシノブカントリーですか?」
可児は社長がよく行くゴルフコースの名を上げた。
「そうだよ」
「うわっ」
能雅が天を仰いだ。距離はそれほど離れていないが、山地にあるので急な坂を上り続けなければならない。
「あそこ、キツいんだよなあ」
「あの長い坂をずっと上るんですよ」
部員たちが口々に愚痴をこぼし始める。
「こんなの、事前に計画を出しておいてくれないと準備が間に合いませんよ」
「そう言うな。それが車両部の仕事だろう」
係長は顔をしかめると、手にしていた紙の束を自分の机にバサリと投げ置いた。
「ともかくシフトを組んでくれ」
古庄に向かってそう言うと椅子に座り、パソコンの画面を覗き込んだ。
渋々顔の古庄はのっそりと立ち上がり、予定表の前に立った。
「砂原は確定でいいか」
「はい」
砂原と書かれたマグネット板を運行担当欄へ貼ってから、しばらくじっと予定表を眺めていたが、やがて古庄は自分の名が書かれたマグネットを砂原の隣へ貼った。
パチンと大きな音が鳴る。
「古庄さん?」
井間賀が躊躇うような声を出した。
「いいよ。俺が出るから」
ふうと溜息をついた古庄が予定表から離れようとしたところへ、係長がさらに声をかけた。
「申しわけないんだけどさ、明日は新車を出すから」
「え?」
全員の目が丸くなる。
「新車って来週じゃないんですか?」
「その予定だったんだけど、乗車されるのは社長だしさ、無理を言ってさっき納車してもらったんだ」
そう言って係長はくるりと椅子を回転させると、背後の窓から外へ視線を送った。駐車場の隅にある車庫のシャッターは閉じられたままだが、どうやらその中に新車が納まっているらしい。
「あのう、今度の車って4WDですよね?」
可児が聞く。
「そう。だから人数が必要なんだ。悪いね」
係長は抑揚のない声で答えた。
「とりあえず、新車の確認に行くか」
古庄が妙に明るい声を上げて手をパンと叩き、部員たちは車両部の居室を出てぞろぞろと車庫へ向かった。
「でかいな」
車庫に納められた新車を見た部員たちの第一声はそれだった。
「今までの車より一回り大きいですよね」
「無駄な威圧感があるな」
艶を帯びた黒い車体は天井の蛍光灯を受けて、濡れたように光っていた。車種で言えばミニバンになるらしいが、どう見てもミニではない。大型のセダンを遥かに上回っている。
「八人乗りらしい」
係長も初めて見るらしく声がどこか上擦っている。
「ひゃあ、これを運用する車両部の身にもなって欲しいよ」
能雅がうんざりした声を出した。
「それが仕事なんだ。文句ばかり言っていないで、早いところ確認しよう」
宥めるような声を出して、係長は砂原に顔を向けた。
「砂原が後ろなのか?」
「はい。そのつもりです」
「よく気をつけてくれよ」
「俺も後ろでサポートするわ」
古庄がそう言って、砂原といっしょに車の後部へ回り込む。
「可児は右の前輪、能雅は左の前輪を頼む」
「了解」
二人は同時にうなずき車両の前部へ向かった。
「俺は?」
「井間賀はスペアを頼む。明日はずっと登り坂だからな。絶対に交換が必要になるだろう」
「わかりました」
井間賀は真剣な顔つきになって、すっと車から離れた。
ここから先は
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?