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遅延

illustrated by スミタ2021 @good_god_gold

 洗面台の鏡に映っている自分の動作がなぜか一瞬遅れていることに俊哉が気づいたのは先週のことだった。とにかくワンテンポ遅いのだ。
 鏡に向かって手を振っても振り返っても表情を変えても微妙に遅れる。
 俊哉に科学的なことはよくわからないが、鏡に映る像が遅れるなんてことがあるのだろうかと不思議には思った。それでも、とりあえず日常生活には支障がないので、あまり深く追求することはやめて、しばらくそのまま放置していたのだが、今週になって遅れが酷くなっているので、さすがに暢気者の俊哉としても、いよいよどうにかしなければならないと思い始めた。
 鏡に映った像が遅れると何か問題があるのかと言われると、特に問題はない。いろいろ考えてみたが困ることは本当に何一つない。
 ただイライラするのだ。そのイライラが問題なのだ。
 どうすれば遅れた動作が元に戻るのだろう。どうすれば像がちゃんと自分についてこられるのだろう。俊哉はわざとゆっくり動いてみた。
 ダメだった。
 俊哉がゆっくり動けば鏡の中の俊哉も同じ速度でゆっくり動くだけだ。ただ動き始めるのが遅いのだ。
 そのうち、家の鏡だけではないことに気づいた。職場の鏡でも車のミラーでも、鏡張りのビルに映った像もみんなワンテンポ遅れているのだ。しかも、家から離れるほど、どんどん遅れが酷くなるのだ。
 十字路交差点の道路反射鏡に映ったときなんて、かなり遅れて映ったものだから、危うく車に轢かれるところだったのだ。
 このままではダメだ。俊哉はついに決心した。
 その日の仕事を終えて自宅に帰ると、洗面台の前に立った。鏡の中の俊哉にじっと視線を向ける。こいつにはっきりと言い聞かせてやるのだ。
 まっすぐ鏡に向かって口を開こうとした瞬間、先に鏡の中の俊哉が口を開いた。
「あのさ、いつもお前はワンテンポ早ぇんだよ」
「え?」
 俊哉は混乱した。いつもは像のほうが遅いのに、なんで今だけ先に動くんだ。
「お前、それはちょっと卑怯じゃないか」
 俊哉がそう言う前に、鏡の中の俊哉はすでにくるりと後ろを向いていた。

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