見たものを見る目

 知人の中に写真を生業にしている人たちが何人かいて、もちろん普段からものの見方というか、世界を見る解像度というか、ともかく「目」が僕なんかとはまったく違っているのはよくよくわかっているものの、一緒に食事をしたり旅に出たりするとその違いが如実に立ち上がってくる。
 写真家、カメラマンと呼ばれる人たちだから、ちょっとしたスナップにしても、あるいは皿に乗って出されたばかりの料理にしても、さぞきっちりと撮影するのかと思いきや、カメラをサッと出してサッと撮って終わり。
 あっちから撮るべきかこっちから撮るべきか、あるいは暗くないか明るすぎないか、もっと近づいたほうが良いんじゃないか、いや背景を入れたほうがいいんじゃないか、僕たちがカメラを手にそんなことを考えている間に、とっくに撮り終わっている。いや、撮り終わっているどころか撮らないことさえある。
 絶景を前に、おもしろい建物を前に、珍しい動物を前に、僕たちがそれぞれカメラやスマホを取り出すのをニコニコと眺めているだけで、彼らは何も撮らない。
 写真を生業にしているのに写真を撮らないのだ。撮らずにいられるのだ。ただその場にいて、じっと見て、何かを感じとって、ふーん、なるほどね、なんて言ったりする。そうして僕たちが、まあここはいいだろうとスマホをポケットにしまったままやり過ごそうとした場所で、すっとカメラを持ち上げて、一枚か二枚シャッターを切って、それで終わる。しかも撮った写真の確認はしない。
 たぶん自分が何を撮ったのかを明確に把握しているから、いちいち確認する必要もないのだろう。
 やみくもにシャッターボタンを押して、さあ何が写ったかな、うまく撮れたかなと夢中で見返している僕たちとは大違いで、それこそがきっと「目」の違いなのだろうと思う。
 彼らは目に入ったものをそのまま見ている。そして、見たものを撮っている。絵描きの目も同じで、自分の見たものをそのまま見ている。残念ながら僕には、視覚情報として目に入ってきたものを、そのまま見ることができない。いちいち解釈したり余計な説明を付け加えたりしながら、実際に見たものではなく、見たものに関する情報ばかりを見ている。
 写真家や絵描きのような、見たものをそのまま見ることのできる目が欲しいと思い、たとえば彼らの持ち歩いているカメラと同じものを手にしたとしても、僕の撮る写真は彼らのようには写らない。どうやっても写せない。僕はあまり写真を撮らないけれども、それでもあの目は欲しいと思う。
 持っている「目」が違うのだからあたりまえだが、それでも少しくらいは近づけるんじゃないかと妬ましく恨みがましく思いつつ、そんな写真家の知人の一人が先日持っていた小さなカメラの値段を、たいして写真を撮らないくせに僕はいまネットで調べているところなのだ。

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