バスを待つ
木でつくられた小屋の周囲はすっかり雪に埋もれて、夏の間は茶色かった木壁が雨水に塗れて黒くなっていた。角度のついた金属屋根には今にも落ちてきそうなほどの雪が積もっている。もうすぐ日が暮れる。寒々とした月の薄い光だけでは、この小屋の存在など灰色の世界に熔けて消えてしまいそうだった。
ガラス窓のついた小さな引き戸を開けて中を覗けば、奥の壁に置かれたベンチの前で石油ストーブがカンカンと金属的な音を立てながら焔を揺らめかせている。
壁には地域の祀りの写真を使ったカレンダーが少々斜めになって貼られているが、誰も捲ろうとしなかったのか、まだ先月のままになっていた。カレンダーの隣には時刻表、その下にはバスの料金が書かれた紙がラミネート加工されて無造作に貼り出されている。大人二百七十円。子ども百四十円。
ベンチからのっそりと立ち上がった男はカレンダーに近づき、特に興味のなさそうな目で写真をしばらく見つめたあと、何度か瞬きを繰り返してから目を擦った。
ふうと溜息をついてからベンチに座り直し、手袋のままストーブに手をかざした。厚く重そうな黒いコートは男の体に合っていないようで、肩と袖がかなり余っている。
もうずいぶん長い間、男はここでバスを待っていた。足元に置かれた大きな茶色のボストンバッグはとっくに重力に負けてクニャリと型を崩し、なんだか地面から生えた木株のように見えた。
歳は八十近くだろうか。顔に刻まれた深い皺に似合わず肌は若々しい色を保っていたが、額まで深く下ろしたニット帽の横から見える髪と髭は真っ白だった。
不意に扉が開いて一人の男が入って来た。若者だった。まだ二十歳前後だろう。
「あ、どうも」
赤いダウンジャケットを来た若者は軽く頭を下げると、ガラガラと大きな音を立てながら引き戸を閉め、ベンチの端に腰を下ろした。背中から下ろした小さなデイパックも赤色で、中には何も入っていないのではないかと思えるほど薄かった。
「ここで何してるんですか?」
若者はそう言いながら、帽子からはみ出ている前髪を指の先で軽く引っ張った。
「ここというのは、この街のことか? それともこのバス停のことか?」
老人はくいと首を回して若者を見た。目が鋭い。
「バス停です」
「だったらバスを待っている」
「あ、俺もです。いっしょですね」
「いいや」
老人は首を振って否定した。若者の言葉だけでなく、世界の総てを否定するかのような強い口調だった。
「君はまだバスを待っていない」
「え?」
「ここへ入って来てベンチに座ってオレに話しかけただけだ。まだバスを待ってはいない。バスを待つのはこれからだろう」
「まあ、そうとも言えますけど」
若者は面倒くさそうに顔をしかめた。話しかけるんじゃなかったと言いたげな目になる。
「バスは来ないよ」
老人がぽつりと言った。
「はい?」
「ここにバスは来ないんだ。一昨年にこの路線は廃止されたからな」
「え? 来ないんですか、バス?」
「ああ、来ない」
老人はきっぱりと言った。
「だったらここで何しているんです?」
「ここというのは、この街のことか? それともこのバス停のことか?」
さっきと同じように鋭い目で若者を見る。
「だってバスは来ないんでしょ?」
「来ない」
若者は口の端を歪めた。
「意味がわかんないです。来ないのに待ってるんですか?」
彼の質問には答えず、老人は壁のカレンダーを指差した。
「ああ、それ。先月のままですね」
老人は黙ったまま頷く。
「あ、でも、路線が廃止になってバスは来ないのに、カレンダーはいちおう先月まで誰かが捲ってるんですね」
若者の視線が隣に貼られた時刻表の上ですっと止まった。しばらく口の中でブツブツと何か言ったあと腕時計に目を落とし、ふんと鼻を膨らませた。そうして小馬鹿にするような目で老人を見た。
「本当に廃止されているのなら変じゃないですか」
「あのカレンダーはオレが捲ってるんだ」
老人は手袋を外し、膝の上に置いた。剥き出しになった手を直接ストーブにかざす。皺だらけの無骨な手は、かなり肉厚だったが指は短かった。
「オレは毎日ここへ来てバスを待っている。気が向けばときどきカレンダーを捲る」
「じゃあ、先月からはまだ気が向いていないんですか」
「そういうことじゃない」
いったい何がおかしいのか老人はクスリと笑った。どこか自嘲めいた笑い方だった。
「そっか」
それだけ言うと若者はデイパックから音楽プレーヤーを取り出し、イヤフォンを耳に挿した。手袋を外して小さなボタンをいくつか押すと、再び手袋を嵌めた。
二人とも何も言わなかった。カンカンと音を立てるストーブが、ときおりパチッと不規則に爆ぜる。激しく降り始めた雪が窓の外を暗い灰色で塗りつぶしていた。石油の燃える甘い香りが小屋の湿気と混ざって、なんとなく懐かしい匂いに変わっていく。
ザサッ。屋根から滑り落ちた雪が音を立てた。
窓の外でチラチラと微かに光が動いた。
若者は慌てて腕時計を見た。プレーヤーにイヤホンを巻きつけてデイパックの中へしまう。
「じゃあ、俺はそろそろバスに乗りますよ」
「来ないよ」
「ええ、来ないんですよね。でも俺のバスは来るみたいですから」
「そうか」
老人は諦めたように深い溜息をついたあと静かに立ち上がり、カレンダーへ近づいた。しばらく写真を見つめてからカレンダーの端を指で摘まみ、ゆっくりと引っ張っていく。捲られた紙の下から新しいページが現れた。
「あれ?」
老人の動作を見ていた若者の目が丸くなった。
現れたのはさっきと同じ祀りの写真だった。だが、同じなのは写真だけではなかった。カレンダーの月も同じだった。捲った下から同じ月のカレンダーが現れたのだ。
「なんですかそのカレンダー。変ですよ」
「この路線は廃止されたんだよ」
老人は破った紙を丁寧に折りたたみ、小屋の隅へそっと置いた。そこには同じように折られた紙が何枚も積み重ねられている。
ボロボロボロボロ。
遠くから唸るような低い音が聞こえてきた。窓の外でちらつく光が強くなるにつれて音も大きくなり、やがて小屋の壁をブルブルと震わせるようになった。
「バス、来たじゃないですか」
若者も立ち上がり、デイパックを肩にかけながら老人のそばへ立った。呆れ顔で老人を見下ろし、肩をすくめる。
老人は若者を見ようとはせず、小屋の隅に積まれた何枚ものカレンダーの紙をじっと見つめていた。
「君はここで何をしているんだ?」
不意に顔を若者へ向けた。
「だから俺はバスを待っているんです」
「このバス停のことじゃない。この世界でだ」
「え?」
若者は言葉に詰まった。どう答えたらいいのかわからず、左右へ視線を動かし天井に向ける。舌の先で唇を舐めてから、口をキュッと固く絞った。
「そんなのわかんないです」
「そうか」
シューッ。小屋の前にバスが止まる音が耳に入った。
「じゃ、俺は乗るんで」
若者は軽く頭を下げて引き戸に近づくとガラガラと大きな音を立てて引き開けた。
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