密林
デスクの前を通り掛かった上司が井塚を見て奇妙な顔つきになった。
「お前、ヒゲ伸ばしてたっけ?」
そう言って上司は手のひらで頬から顎を撫でた。
「え?」
井塚も同じように自分の顔をテロリと撫でる。手のひらにザラザラとした髭の感触があった。確かにけっこう伸びている。
「あれ。今朝、剃ったんですけどね」
「だよな。朝礼のときは別に気にならなかったからな」
「ですです。バッチリ剃ったんですよ。おかしいな」
困った顔で首を捻った井塚を上司が笑った。
「髪が伸びるのはいやらしい証拠だって、子どものころはよく言ったけどさ、ヒゲが伸びるのはどうなんだろうな。変態ってことか」
「やめてくださいよ」
井塚は膨れっ面になる。そのまま肩をすくめてパソコンの画面に視線を落とした。
しばらくの間、細かな計算表を見つめていたせいか、いつしか肩がずいぶん凝っている。井塚は画面から目を離し、天井に顔を向けたまま両方の肩をグルグルと回した。固まっていた筋肉が解れていくのは痛いけれども気持ちがいい。
「ううう」
妙な唸り声が出た。
「井塚さん、いつからヒゲ伸ばしてましたっけ?」
向かいの席から部下が怪訝な表情で聞く。
「俺が? ヒゲを?」
窓ガラスに映った自分の顔を見た井塚は思わず目をキュッと細くした。顔の下半分が薄黒くなっている。
「ぐへっ、ごへっ」
慌てて洗面所へ駆け込んで鏡を覗き込んだ井塚は、おかしなタイミングで息を飲み込んでしまい、激しく咳き込んだ。
「なんだこれ。なんだよこれ」
指先で顎のヒゲを一本だけ摘まみ、引っ張ってみる。一センチ以上はあった。こうなると剃り忘れだの無精髭だのという話ではない。明らかにわざと伸ばしているとしか思えないほどはっきりとヒゲが伸びているのだ。
狐につままれるとはまさにこのことだ。
井塚は困惑しながらオフィスへ戻った。
「あ、井塚さん、ヒゲを伸ばしてるんですか。けっこう似合ってますよね」
「まあね」
どう答えていいのかわからず、曖昧な返事をするしかなかった。
昼食を終えて職場に戻るころには、ヒゲはもう鼻の下にも顎にも頬にもたっぷりと蓄えられていて、中近東の砂漠地帯に暮らす遊牧民のような風情をたたえていた。
「まいったな」
午後の仕事に取りかかったところで井塚は大きな溜息をついた。パソコンの画面に視線をやると、ヒゲがジャマでキーボードが見えないのだ。しかたがない。井塚は顔を上げたり下げたりしながら、再び計算表とにらめっこを始めたのだった。
ガクン。
首が落ちて井塚は目を覚ました。じっと画面を見つめているうちに、どうやら居眠りをしていたらしい。歳のせいなのか、ここのところ昼食を食べるとやけに眠くなるのだ。
妙に薄暗かった。ぼんやりとした頭で周囲を見回す。
ズサッ。ズサッ。
暗がりの中で耳慣れない音が響いていた。
「どうなってるんだ?」
オフィスの中は一面びっしりと木々で覆われ、あたかも密林のようになっていた。薄暗いのはそのせいだ。井塚は手近にある細い木を手に取った。
「これって」
木のように見えていたものはヒゲだった。何本ものヒゲが絡みあって植物のようになっているのだ。
これは俺のヒゲだ。井塚は体をブルッと震わせて、手にしたヒゲから手を放した。
たかだか一時間も寝ていないだろう。それなのにこんなに伸びるなんて。
「誰かいるか?」
返事はなかった。ほとんど何の音もしない。
ズサッ。ズサッ。あの音だけが聞こえている。
みんな逃げたのか、それともヒゲに飲み込まれたのか。
井塚は恐る恐る自分の顔に手をやった。顔の下半分からはドレープカーテンのようにヒゲが垂れ下がっている。片手で顎のヒゲを掴んだが数秒後にはその手が胸の辺りまで移動した。さらに数秒後にはヘソの辺りにまで移動する。ズサッ。ズサッ。凄まじい速さでヒゲが伸びているのだ。ズサッ。ズサッ。この音はオレのヒゲが伸びる音だったのか。
井塚はゆっくりと立ち上がった。顔から伸びたヒゲがサワサワと音を立てて揺れる。歩き始めると井塚の顔に引っ張られて密林全体が大きく動いた。
ヒゲの密林に覆われているのはオフィスだけではなかった。階段もエレベーターもすでにヒゲに飲み込まれている。ついさっきは辛うじて見えていた窓の向こうの景色が、いつのまにか黒々としたヒゲで隠されていた。どうやらビル全体がヒゲで埋め尽くされているようだった。
何重にも折り重なったヒゲの暗幕をかき分けるようにして、井塚はなんとかビルを出ようとしたが、ようやく辿り着いたエントランスの先もすでに密林で覆われている。いつもならそれなりに人通りのある道も、隣のビルも、向かい側の商店も、伸び続けるヒゲの中に消えてしまっていた。
井塚は当て所もなく歩き始めた。ヒゲに覆われた地面はツルツルと滑って歩きにくい。一歩ずつ足取りを固めなければ転んでしまいそうだった。井塚が進むのに連れて密林はどんどん形を変えていく。これだけのヒゲが自分の顔から生えているのに、不思議と重くはなかった。
どこまで行ってもヒゲの密林は終りを見せようとはしなかった。歩き疲れた井塚はかつてそこにベンチがあっただろうと思しき場所に腰を下ろした。
ここから先は
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?