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島で一番

illustrated by スミタ2024 @good_god_gold

 島の山側にはあまり住人がいないのでそれなりに車のスピードを出してもたいして問題はないように思う。信次はアクセルペダルに乗せた足に力を入れて床に着くまで踏み込んだ。
 信号もない一本道は島の中心部にある山を貫くようにして南側の町と砂間葉の広がる北側を結んでいる。
 街灯などあるはずもなく、ヘッドライトのハイビームに照らされた左右の木々だけが道の様子を伝えていた。遠くに現れた木が一瞬の後には背後に消えていく。これほどのスピードを出していても人を軋く心配はなかった。
 だが野生動物はそうもいかない。もともと車の多くない島だ。山猫のような哺乳類がいつ急に飛び出してくるかはわからない。人間を警戒する気が全くないのだ。大きな動物だけではなく、この島では鳥たちものんびりとしている。車が近づいても都会の鳥のように素早く飛び立って逃げるようなことはない。ただ呆然とその場に居続けるのだ。この島に移ってきてから、信次は何度も路上で干からびた鳥の死骸を見かけていた。
「うわっ」
 目の前を何かが横切ったような気がして、信次は慌ててブレーキを踏んだ。キュッとタイヤが音を立てる。
 どうやら気のせいだったようだ。何もない道を長く走っていると、ときどきそんな幻覚を見ることがある。それまで少しぼんやりとしていた意識がはっきりした。ハッとしたことで目が覚めたのだ。
「疲れてるな」
 道の先は闇の中へと続いている。信次もまだあまり通ったことのない道だった。こんなところに道があっただろうか。島はどんどん開発されており地図も毎年、いや毎月のように更新されていて、どれが最新のものなのかもはっきりしていなかった。
 旅行者としてこの島にやってきて以来、信次はのんびりとしたこの島の魅力にすっかりとりつかれてしまい、ついに去年の夏に移住して来たのだった。フリーランスのエンジニアだからこそできたことだとも言える。互いに顔を合わせての打ち合わせや日々の細かな連絡にはやや不便ではあるものの、それでもメールやオンライン会議を使えばある程度はカバーできるし、特に信次の担当するような小さなアプリケーションの開発は、画面のデザイン以外はほとんど一人でできる。これまでのところ、なんとかうまくやっている。みんなもこういう働き方をすればいいのにと思うほど快適な暮らしだ。
 またブレーキを踏んだ。運転に集中しなければ。
 海岸で知り合いが集まるちょっとしたイベントに参加したものの、他のメンバーはその場でキャンプをして夜を過ごす予定だとは知らなかった。せっかくだから近くのバンガローでも借りようかと思案しているところに携帯電話が鳴った。どうしても今夜中に家に戻らなければならないトラブルが発生していた。泣く泣くイベント会場をあとにしたのが一時間ほど前のことだ。
「ふう」
 大きく息を吐いてから信次は窓を開けた。風が入れば少しは眠気覚ましになるだろう。気温は低いが、ねっとりと体にまとわりつく湿った空気がハンドルを握る手を湿らせるようだった。
 チラ。
 バックミラーに光が見えたように思った。次の瞬間、すぐ後ろから目映いほどの明るい光が車内に差し込まれた。
 いつのまに追いつかれたのか、後続車が迫っていた。
「まいったな」
 完全に目が覚めた。
 せめて停まれる場所でもあれば先に行かせることもできるのだが、路肩に寄せようにも両側には木がみっしりと生えている。勝手のわからない一本道、しかも真っ暗闇である。どれほど迫られても道の譲りようがなかった。
 後続車は明らかに苛立っているようで、スピードを上げ下げを繰り返している。ギリギリまで近寄ってきたかと思えば遠ざかり、また近づいてくる。クラクションを鳴らされないだけまだましだが、それでも信次は激しいプレッシャーを感じた。
 チラチラとバックミラー越しに見る後続車は、どうやら島でよく見かける軽トラックのようだった。
 しかたがない。信次は再びアクセルに乗せた足に力を込めた。グンとスピードが上がり、一気に後続車を引き離す。バックミラーの中のヘッドライトがどんどん小さくなっていく。これならどうだ。さすがに軽トラックではついて来られないだろう。
 車はただの暗闇に向かって一直線に走って行く。何が飛び出してくるかもわからないし、どこからカーブが始まるのかもわからない。信次は自分の手にじっとりとした汗を感じた。一瞬も気が抜けない。ほとんどテレビゲームをやっているような気分だった。
 それでもスピードを緩めれば、またあの軽トラックに追いつかれて煽られるにちがいない。せめて二車線ある道路に出るまでは、こうでもするしかない。
 やがて車は緩やかなカーブに差し掛かった。信次はアクセルから足を離し、慣性だけでカーブを曲がっていく。直線に戻って再びアクセルを踏み込んだところで、後ろから再びヘッドライトの光が車内に差し込まれた。
「えっ」
 信次の背筋に冷たいものが走った。あのカーブで一瞬スピードを緩めただけなのに、まさか追いつかれるとは。
 軽トラックがじりじりと近づいてくる。いったいどんな人が運転しているんだ。
 やがてパッシングが始まった。
「待ってくれ。この道じゃ避けようがないんだよ」
 だがパッシングは止まらない。このプレッシャーのかけ方、荒っぽい近づき方。地元の不良を怒らせたのだろうか。たとえ俺が車を駐めても、追い越さずに乱暴してくるのではないだろうか。まずい。まずいぞ。
 とにかくアクセルを踏むしかない。引き離すしかない。相手は軽トラックなんだ。
 車はさらにスピードを上げ、闇の中へ飛び込んでいく。
 ヘッドライトに照らされてときどき光って見えるのは虫なのだろうか。それとも鳥の目なのだろうか。
 どれほど走っただろうか。もうミラーの中に軽トラックの姿は見えない。信次はスピードを落とした。深呼吸をする。どうやらかなり緊張していたらしく体中が強張っていた。

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