新イソップ物語・すっぱいブドウ
茹だるような暑い日だった。強い陽射しが照りつける中、畑を抜ける小径を一匹のキツネがとぼとぼと歩いていた。もう何日も餌にありつけていないせいで、キツネはとても腹を空かせていた。
「ああ腹がへったなあ。何でもいいから口にしたいよ」
と、キツネは言った。
ふいに、道の向こう側に大きな木が生えているのが目に入り、キツネは思わずその木に駆け寄った。木にはブドウがたわわに実っていたのだ。
「うわああ、めちゃちゃくちゃ甘い香りがするぜ」
キツネはよだれを垂らした。
「さっそくいただくとしよう」
そう言ってキツネは、ブドウを見上げた。実は思いのほか高いところにある。体をぐいと伸ばして前脚を大きく振り回したが、前脚はそのまま空を切るだけで、ブドウを掴むことはできなかった。キツネは再びブドウを見上げた。風に揺れたブドウからは、さらに甘い香りが漂ってくる。キュウッと腹が鳴った。何としてもあのブドウを手に入れたい。
「ようし、だったら」
キツネは数歩後ずさってから勢いよく走り出し、木の幹をジャンプ台に使って高く飛び上がった。だが、それでもブドウには届かない。二度、三度と走る距離を伸ばして飛び上がるが、あと僅かなところでブドウを手に入れることはできなかった。
どさりと地面に落ちたままキツネはじっと考え込み、やがて目の前に落ちていた木の棒を拾った。
「オレはキツネだけどさ」
ゆっくりと立ち上がったキツネは物語の作者に向かって話しかけた。
「道具を使ってもいいかな?」
そう言ってウインクをする。
「それはダメだろう。キツネは道具を使わないんだよ」
淡々とした表情のまま作者は首を左右に振った。作者としては、腹を空かせたこのキツネに、なんとかチャンスを与えてやりたいのだが、ものごとにはルールがある。
「でもさ、オレ、言葉を話しているぜ」
「あっ」
作者の口があんぐりと開いた。キツネの言うとおりだ。たしかに物語の最初からキツネは人間の言葉を使っている。迂闊だったが、そうしなければこの物語は成立しない。
「わかった。道具は使っていいことにしよう」
口を曲げながら作者はうなずいた。しかたがない。言葉を話すのなら道具だって使うだろう。それがこの物語世界なのだ。
「ありがてぇ」
キツネは両方の前脚を使って、しっかり棒を持つとブドウに向けて素早く突き出した。棒の先端がブドウに触れてブドウの房がぶらんと揺れた。
「いいぞ、いいぞ。いけそうだ」
さらに棒で突く。ますますブドウが大きく揺れる。揺れに合わせてタイミング良く突き続けたあと、揺れるのとは逆のタイミングで木の棒をブドウに叩きつけた。
「どうだ?」
しばらくの間、キツネは期待する目でブドウの房を見つめていたが、やがてがっくりと肩を落とした。ブドウは木の枝から離れず、その場でブラブラと揺れているだけだった。
「もういい」
キツネは棒を投げ捨てた。ガランと音を立てて棒が地面に転がる。
「どうせ取れない設定なんだろ。ふん、こんな茶番、つきあいきれねぇよ」
作者に向かって文句を言ってから、くるりと踵を返した。
再び畑を抜ける道に向かって足を踏み出そうとしたところで、キツネはふと足を止めて木を振り返った。たわわにぶら下がるブドウを見上げて首を左右に振る。
「どうせ、あんなブドウは酸っぱくて不味いに決まってるさ」
そう言って自分の足元に視線を落とし、口の端をぎゅっと歪めた。
「そう。オレはブドウなんて嫌いだったんだ。頼まれたって食べてやらねぇよ」
ふっと笑った。何かを諦めたような、それでいて物欲しげな笑みだった。
「いいえ、そんなことはありませんよ」
いきなり頭の上から声が聞こえてキツネはギョッとしたように再び木を見上げた。
「あなたのその態度は認知的不協和の解消ってやつです」
枝の隙間から一匹のリスが顔を覗かせる。
「はあ?」
キツネは顔を曇らせた。
「あなたはこのブドウを酸っぱい、おいしくないと断定することで、手に入れられない悔しさをごまかそうとしているんです」
「ガタガタ言うんじゃねぇ。そのブドウは酸っぱいに決まってるんだよ」
「それじゃ、僕が食べてみますよ」
リスはツツツっと枝を渡りブドウの房へ近づいた。一粒ちぎり取って口に入れる。
「ああ、甘い。うわあ、めちゃくちゃ甘い」
「なんだと」
「本当です。こんなに甘くて瑞々しいブドウは、僕も久しぶりです」
「くっ」
キツネの口によだれが湧き始めた。
「それさ、こっちにも落としてくれねぇか?」
「ああ、おいしい。おいしいなあ」
リスはキツネの言葉など耳に入らないようで、次々にブドウを食べていく。
「おい、リスッ!」
我慢ならなくなったキツネは頭上に向かって大声を上げた。
「ん?」
ブドウを一粒抱えたまま呑気な顔でキツネを見下ろしたリスは、キツネが険しい表情を自分に向けていることに気づき、慌ててブドウを飲み込んだ。
「何かご用ですか?」
「悪いんだけどさ、そのブドウを一房ばかり落としてくれねぇかな」
「どうしてですか?」
惚けた口調でリスは聞いた。
「だって、あなたはブドウなんて嫌いだ。頼まれたって食べないって仰ったじゃないですか」
そう言ってから、ニヤニヤと笑い始める。
「うるさい。本当に甘いかどうかを確かめるだけだ」
キツネは口を尖らせた。
「もちろん甘いですよ。とっても甘くて瑞々しくておいしいです」
「じゃあ、オレにもよこせ」
「え? だって嫌いなんでしょ?」
またしても惚けた口調で聞いた。
「それはその、つまり、お前が嘘をついているかもしれないだろ。だから、オレが確かめてやるんだよ」
キツネはしどろもどろに答える。
「何を言ってるんですか。甘くても甘くなくても、あなたには関係がないじゃないですか。だって頼まれても食べないんですから」
リスは得意げに鼻を鳴らした。ニヤニヤ笑いが顔中に広がっていく。
「ふふふ。本当はこのブドウが欲しいんでしょう? いいですよ。リス様、どうか落としてください、お願いしますって丁寧に頼めば、落としてあげても構いません」
「なんだと」
もともと細かったキツネの目がさらに細くなる。
「ほら、リス様って言ってくださいよ」
そう言ってリスはブドウの房をゆらゆらと揺らした。
「これが欲しいんでしょ?」
「ふざけるなッ!」
キツネはガッと牙を剥いた。剥き出しになった牙が陽射しを浴びてギラリと光る。同時に前脚の先から鋭い爪が飛び出した。たいていの小動物はこれで震え上がる。
しかし、遥か頭上のリスは、キツネから発せられた殺意など意に介さず、飄々とした面持ちでブドウの房を揺らし続けていた。
「ちょっと頼むだけで、こんなに甘いブドウが食べられるのになあ。もったいないなあ」
リスはブドウを一粒ちぎり取り口に入れた。
「ああ、甘いなあ。おいしいなあ」
キツネはしばらくリスを睨み付けていたが、やがてゆっくり牙と爪を収めると、静かな口調で言った。
「もういらねぇ」
そう言って肩をすくめた。
「へえ。確かめなくていいんですか? こんなに甘いのになあ。もったいないなあ」
「そんなブドウが甘いはずねぇからな」
「ははあん。それは希望的観測、つまり認知と意思決定の歪みですね。感情的要因によるバイアスってやつですよ」
「わけのわからねぇことを言ってんじゃねぇよ。そもそもオレたちキツネってのは雑食性だが肉食寄りなんだ。たとえ甘くてもブドウなんか喰わねぇ」
「ああ、そうですかあ」
リスは鼻先で笑った。
「肉食動物のプライドがじゃまをして、甘いかどうかを確かめることもできないないなんて、情けないですね」
「ふん。そのうち確かめてみるさ」
キツネはボソッと呟いた。
「あははは。あなたには無理ですよ、だってここまで上がって来られないでしょ」
そう言うとリスは枝にぶら下がって、キツネに尻を向けた。
「僕に頼まないかぎり、甘いかどうかを確かめることはできませんから」
キツネは何か言い返そうとしたが、グッと奥歯を噛んでその言葉を飲み込むと、ゆっくりと体の向きを変えてブドウの木に背を向けた。
「そう。オレは肉食なんだ。ブドウなんかに気を取られている場合じゃねぇ。さっさと別の食い物を探しにいくさ」
キツネはじっと前脚の先を見つめた。この爪を使って餌にありつく。それがオレの生き方なんだ。キツネはそう思った。
「あれ? 逃げるんですか? 確かめないんですか?」
背後からリスの声が聞こえてきたが、キツネは振り返ることもなく畑を抜ける道に向かって、ふらつく足で歩き始めた。あれほど強く照りつけていた陽もいつしか傾いて、畑が金色に染まっていた。
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