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上と下のモダン・ダンス

illustrated by スミタ2021 @good_god_gold

 シュンヤが階段を上り始めてからもうずいぶんになる。
 横幅はあっても、一つ一つの段差は十センチにも満たず、しかもそれぞれの段ごとに踏板の奥行きが三メートル近くもあるせいで一段ずつ上がることはできず、段ごとに二歩か二歩半ほど踏板の上を歩くことになる。これでは一定のリズムを保ち続けることが難しいし、何よりも上に向かっているというよりも前に進んでいるような気がしてならない。

 それでもこの低い段差のおかげで、たいして足を痛めることもなく上り続けることができるのだし、これまで他のみんなだってそうして上ってきたのだから、あまり文句を言ってもしかたがなかった。左右を見れば、やっぱり踏板で微妙にリズムを調節しながら、歩き辛そうに階段を上がっている人々たちの姿が目に入る。
 これはそういう造りの階段なのだ。
 歩きながらシュンヤは顔を上げて、どこまでも階段の続くその先へと目をやった。驚くほど幅の広い階段も、遙か遠くでは針のように細くなって、そのまま真っ白な雲の中に吸い込まれているから、やはり単に前へ進んでいるのではなく、少しずつ高さも上がっているらしいとわかる。

「遠いなあ」
 さらに数時間ほど上ってから、シュンヤはふと足を止めた。さっき見上げた雲には、少しも近づいてなかった。雲は変わらず同じ場所にあって階段を飲み込んでいるが、あれほど白かった雲は、暮れ始めた日の光を浴びて薄い赤黄色に変わりつつあった。
 まだまだ先は長い。今日はこの辺りで休んでもいいだろう。一つ上の踏板にゆっくり腰を降ろして、シュンヤはそのままゴロリと横になった。段差は十センチしかないけれども、幅は数キロあるから、いくらでも転がることができる。どの段にも、そうやって寝転がっている者を見かける。
「おう、坊主。何段上った?」
 シュンヤの転がった段よりも、もう一つ上の段で転がっていた男が尋ねた。段差が低いので、ほとんど並んで横になっているようなものだ。
 男が身につけているスーツはかなり傷んでいて、元は紺色だったのだろうけど、砂埃に汚れたのかすっかり灰色になっていた。首筋まで垂れた髪が伸び放題の頬髭と混ざって、顔の輪郭がはっきりとしない。
「数えてないよ」
 シュンヤは面倒くさそうに答える。
 上り始めたばかりのころは数えていた。百段ごとに目印になる何かを見つけて、うっかり数え損なったときにも、その目印から数え直せばいいようにしていた。けれども一度昼寝をしたら、もう数を忘れていた。寝る前に何かに書き留めておけばよかったとそのときは思ったものの、どうせすぐにわからなくなるだろうし、自分の上がった段数を知っていたところで、何かが変わるわけでもなかった。段の数に意味はないのだ。
 それでも階段で出会う大人たちは、すぐに上った段数を聞いてくる。段の数に意味がないことくらい彼らだって知っている。知っているのに尋ねるのは、それを挨拶だと思っているからだった。
「そうか。じゃあもうけっこう上がったんだな」
 みんなそうなのだ。数えるのは最初だけ。誰もがそれぞれの理由ですぐに数えなくなる。
「で、どれくらいになる?」
 この質問にならシュンヤにもまだ答えられた。
「三ヶ月」
「ふふん」男は鼻から奇妙な音を出した。
 男の向こう側には、階段を数段跨がるようにして小さな家が立ち並び、窓からは黄色い明かりが漏れ出していた。
 段差の低い階段は平地と何も変わらない。そこには家が建てられ、市場が立ち、街がつくられ、階段を上がらない人々が日常生活を送っている。ときには数千段にわたって田畑が続くこともあれば、巨大な工場が建てられている段もある。
「俺は八年だ。脱サラして上がり始めたんだけどさ」男が言った。
「さすがにそろそろ落ち着こうかと思っている」
 そう言って寝返りを打ち、シュンヤに背を向けた。
 最初から階段を上がらない者や、途中で上ることを止めた者たちは、近くの段に住む者たち同士で結婚し、子供を育て、やがてコミュニティの一員となっていく。
 ——ずっと同じ段にいるなんて——
 どうしてもっと上へ行こうとしないのか、シュンヤには不思議でならなかったが、実際には階段を上がる者よりも、上がらずに一生を同じ段で過ごす者のほうが多い。

 シュンヤが階段を上り始めたのは一年近く前のことで、三ヶ月と答えたのは嘘だった。
「俺、階段を上ろうと思うんだ」
 そう言ったシュンヤに父親はただ「そうか」と言っただけだった。シュンヤのことよりも、目の前にあるパンに何を塗るかの方が重要だと言いたげな表情だった。
「たぶんもう戻らないよ」
 シュンヤは躊躇いがちに言った。
「わかっている」
 父親だって、もともとはもっと遙か下の段で暮らしていたのを、ある日思い立って十数年かけてここまで階段を上がってきたのだから、当然シュンヤの抱えている気持ちは充分わかっていた。
「行きたいのだろう。だったら行けばいい」
 父は息子の未来に興味などなさそうな口調でそう言った。母親は黙ったまま紅茶の入ったカップをじっと見つめている。
 階段を上がらずに暮らすこともできるし、そのほうがきっと楽だろう。学校での成績だって悪くないのだから、たぶんそれなりにいい仕事に就くこともできるはずだ。周りでも階段を上がろうなんて考えている者はおそらく一人もいない。
 ——このままでもいいんじゃないか——
 しばらく考えた末に、シュンヤはそれでもやっぱり階段を上ろうと決め、弟のタクヤを誘った。ところがタクヤはいっしょに行くことを拒んだ。
「僕は下りる」きっぱりとした口調でそう言った。
 階段を下りたがる者など聞いたことがなかった。
 シュンヤだけではなく、父親も学校の先生も総出で説得に当たったが、タクヤは耳を貸そうとはしなかった。タクヤには一度自分がこうと決めたら何があっても曲げようとしない頑固なところがあって、そのことは周りもわかっていたので、結局最後にはタクヤの好きにさせることになった。
「お前といっしょに上りたかったんだけどな」
 そう言うシュンヤに向かってタクヤは笑いかけた。
「お別れだね」
 こうして二人は別々の道を進むことになった。シュンヤは上へ。タクヤは下へ。同じ段にいる限りは、どれだけ遠くに離れても必ずお互いを見つけられるのに、反対方向へ階段を進めば、やがてその姿は見えなくなる。
 最後に姿を見たのは二人が別々の道を歩み始めた日の午後で、指先に隠れそうなほど小さくなったタクヤに向かって、シュンヤは大声をあげ、両手を激しく振り回した。けれども階段の下だけをまっすぐ見ながらどんどん下っていくタクヤがこちらを振り返ることは一度もなかった。
 両手を頭の下で組み、シュンヤは深い夜が広がりつつある空を眺めた。
「あいつ、今ごろ何をしているんだろう」
 病気やケガをしていなければいいが。暗くなった空に弟の顔を思い浮かべながら、シュンヤは眠りについた。

 十代で階段を上り始めたシュンヤもいつしか歳を重ね、気づけば三十半ばを過ぎていた。若いころとは違ってがむしゃらに上がることはしなくなっている。しばらく同じ段に留まって工場などで短期間の仕事に就き、金が貯まったら再び階段を上がり始める。その繰り返しだ。
 もともと階段を上がる者は少なかったが、この二十年ほどの間にますます減って、今ではもうほとんど存在していなかった。階段を上がっていると言えば、まるで珍しい動物を見るかのような目で見られたが、その一方で食事や宿を提供してもらえることもあった。
 これまでには仕事の関係で一年近く留まった段もあった。それなりに恋愛もして、このままその段で暮らそうかと考えたこともあったが、遥か遠くへ視線をやって、あの白い雲に飲み込まれる階段を見るたびに、あそこへ行きたいという気持ちがどうしても抑えられなくなった。
 

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