専門店ならでは
illustrated by スミタ2021 @good_god_gold
出張先では知っている店は少ないし、時間も限られているから意外に昼食に困ることが多い。
「ほら、ここ。まだやってるみたいだぞ」
渡師が道路脇に置かれたイーゼルの上の小さな黒板を指差し、それに比嘉が応じて頷いたところで今日の昼食が決まった。店自体は最近よく見かける自然志向カフェの体裁で、真鍮製の真新しい看板にはボンゴレ・ビアンコ専門店と明るい青色の刻印が刻まれている。
「ボンゴレ・ビアンコ専門って、また狭いところを攻めるなあ」
「これで美味くなかったら目も当てられませんね」比嘉が同意する。
「だな。別にこの辺って海があるわけでもないのに不思議だな」
ペンキで白く塗った木材を外装に使った建物は、ヨーロッパよりもアメリカ中西部にありそうな雰囲気で、緑色のドアと金色のノブがアクセントになっている。
ドアを押し開けて中に入ると、明るい白を基調とした清潔感のある店内では、カップルがひと組テーブルに着いているだけだった。
「こちらへどうぞ」
すらりとした若い店員に案内されて二人は窓際のテーブルについた。窓の外に目をやると芝生の張られた小さな庭の中央で、池の水がゆらゆらと揺蕩っている。
「一人前ずつでよろしいでしょうか?」
「え?」
「当店はボンゴレ・ビアンコ専門店でございます」
「あ、そうか」
「種類はないの? ソースがちょっと違うとか?」
渡師が聞くと、店員はほんの少しだけ首を傾けて困った顔になった。
「ございません。当店のボンゴレ・ビアンコは一種類だけでございます」
「なるほど。そうなのか。じゃあ、それをお願いします」
「私も」
「かしこまりました。ボンゴレ・ビアンコを一人前ずつですね」
店員はニッコリ笑って滑るようにその場を離れて行った。
「さすがは専門店だな」
「メニューもないんですね」
「専門店ならではだな。な、これからは、こういうのが来るんだよ」
そう言って渡師はニヤリと口の端を持ち上げて見せた。万人受けする商品ではなく、ごく少数の強い顧客をつかむ商品が勝つのだ。ニッチに特化しなければならない。それが最近の渡師の持論で、会議のたびに比嘉は同じことを聞かされ続けていた。
「店員の動きもキビキビしていて、なんだかとても気持ちがいいですね」
「うん。あっちにいる子も背筋がしゃんと伸びてるな」
その店員に向けて比嘉はすっと手を上げた。
「ただいま承ります」
数秒もしないうちに店員が渡師の側に立つ。
「食後のコーヒーって頼めますか?」
注文を聞いて彼女は口元をやや硬くした。
「申しわけありません。当店はボンゴレ・ビアンコ専門店でございまして、ボンゴレ・ビアンコ以外のご用意はありません」
「あらら。コーヒーもないんですね」比嘉は目を丸くした。
「そりゃそうだよ。だからほら、そのこだわりが専門店ってヤツなんだ。それがいいんだよ。な?」
渡師は自分が褒められたかのように得意げに言う。
「はい。ありがとうございます」
店員は柔らかな仕草で頭を下げた。
窓から差し込む光が白い壁に反射してしだいに室内を明るさで満たしていく。厨房からザッと音が聞こえたとたん、ニンニクを焦がす香りが二人の鼻腔をくすぐった。
ギュウルル。香りに反応して比嘉の腹が鳴り「すみません」と、あわてて頭を下げる。
またしてもザアッと音が聞こえて、今度はアサリと白ワインの香りが漂ってきた。キュウウウゥー。さっきよりも大きな音でまた腹が鳴る。比嘉もこんどは照れくさそうな顔をしただけだった。
「あ、たぶん来ましたよ」そう言って比嘉が顔を厨房に向ける。
「よし」渡師は腰を深くかけ直した。
「お待たせいたしました。ボンゴレ・ビアンコでございます」
カタンと小気味よい音を立てて皿がテーブルに置かれた。
細めのスパゲティはくるくると曲線を描いたままオリーブ油ベースのソースに絡まり、その間には薄い縞模様が描かれたアサリが殻ごと覗いている。所々にみえる小さな赤い粒は鷹の爪だろう。さらに緑色のパセリが鮮やかに散らされていた。ふんわりとしたオリーブ油の香りが皿から立ち上る。
「これは美味そうだ」
「いただきます」
二人が食べ始めると、すらりとした若い店員がそれぞれ二人ずつ、渡師と比嘉の後ろに並んで立った。四人とも手には細長い銀色のトングを持っている。
「あ、これは」
比嘉はフォークの先で殻の開いていないアサリを皿の端へ寄せた。
「おお、死んでいたか。ああ、こっちにもあったわ」
渡師も殻の閉じているアサリを脇へ除ける。
と、不意にすうっと渡師の背後から細長いトングが伸びてきた。トングは皿の上で殻の閉じたアサリをつかみ、そのまま後ろへ持ち去っていく。
「えっ?」
渡師が驚いて振り返ると店員が爽やかな笑顔で大きく頷いた。顔を正面に戻すと、テーブルの向こう側でも若い店員が細長いトングで比嘉のアサリを回収している。
「あのう、これはいったい何を?」
「当店はボンゴレ・ビアンコ専門店でございますから」
「専門店ではこういうことをするの?」
「もちろんです」
彼はトングでアサリをつかんだままそっと顔を縦に振る。
完璧なボンゴレ・ビアンコを提供するためにはあらゆる努力を惜しまない。それが専門店ならではの心遣いなのだ。
「おい」突然、厨房の奥から声が聞こえた。
「アサリが集団で逃げ出した。すぐに追いかけろ」
全身を黒ずくめのスーツで固めた男性が店内に飛び込んできた。
「あっ。これはお客様。たいへん失礼いたしました」
男はキリッとその場で直立し、深々と頭を下げる。しばらくそうしたあと、素早く顔を上げて若者の一人に近づいた。
「いいか。今すぐ追いかけて捕まえるんだ。一匹残らず逃がすんじゃない」
耳元で囁くように硬く冷たい声を出すと、若者が二人、急いで店の奥へと下がっていく。
「アサリが逃げた?」
比嘉がきょとんとした顔を見せていた。
「ああ、すみません。お食事をお楽しみ中のお客様にまで、ご迷惑をおかけして申しわけありません」スーツの男が再び頭を下げる。
「アサリってのは逃げるものなんですか?」
「はい、お客様。当店はボンゴレ・ビアンコ専門店ですから、選び抜いたアサリを使っております。そのぶんいろいろと厄介もございまして」そう言って男は肩をすくめた。
ザ-ーッ。いきなり窓の外から大雨の降る音が鳴り響いた。
渡師は思わず腰を浮かして窓外に視線をやる。
雨ではなかった。
「アサリだ」
ザザザッ。何千、何万というアサリの集団が庭を移動していた。ザーッ。ザサザザザッ。ザザーーッ。黒っぽいものから、ほとんど白に近い薄茶色のものまで、さまざまな色のアサリが庭を埋め尽くしている。それは、あたかもアサリでつくられた一枚の巨大な絨毯のようで、激しいうねりを見せながら庭の中を高速で徘徊していた。
全てのアサリが一致団結して絨毯になっているのかと思えば、どうやらそれだけでもなさそうだった。ときおり絨毯から離れた数匹が池に飛び込み自由に泳ぎ始めると、逆に池から飛び上がってきたアサリたちが絨毯に合流する。あるいは屋根の上から次々に滑り降りてくるアサリや、庭の隅に置かれたブランコに揺られるアサリもいた。
若者たちも全力であとを追っているものの、なかなか捕まえることができない。
痺れを切らしたスーツの男が窓に駆け寄った。
「逃がすなよ、一匹も逃がすなよ」窓を開けてそう怒鳴る。
次の瞬間。
いきなりアサリの絨毯が窓の中へと伸び、男を包み込んだ。
「うわあっ」
アサリに飲み込まれたまま男は窓の外へ引きずり出され、そのまま庭を運ばれていく。
「なんとかしろ!」そう叫ぶが口の中にもアサリが入っているようで、くぐもった声しか出せずにいるようだった。
若者たちは顔を見合わせたまま立ち尽くしている。
「こらあっ!」
野太く低い声が辺り一面に響き渡り、店を、庭を、周囲の木々をビリビリと振動させた。
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