島にて
その日、ファノンは日が落ちてすっかり暗くなった港を一人でうろついていた。船を探すためだ。
そもそもは、ウィックローにあるその町で開かれた小さな音楽フェスに参加したあと、ダブリンへ戻る手段がなくなったことから始まる。
このフェスに参加する客のほとんどは泊まりがけか、車でやって来ているのだが、ファノンは列車を使って日帰りするつもりでいた。
最終列車に乗れば、その日のうちにダブリンへ戻れるはずだったのだ。ところがアンコールの途中で抜けて駅へ向かうと、でっぷりと太った女性駅員が窓口に座り、悲しそうなつくり顔で首を横に振っていた。
「ダブリンまで一枚」
ファノンは駅員に話しかけた。
「ごめんなさい。今ちょうど列車が出たところなの」
「最終列車に乗るから平気だ」
ファノンは駅舎の壁に貼られている時刻表を指差した。最終列車の時刻まではまだ一時間近くある。
「今日はさっき出たのが最終列車なの」
そう言って駅員はもう一度、悲しそうなつくり顔を見せた。
理由はわからないが、とにかく最終列車は出てしまったらしい。列車が予定通りに来ることなどめったにないが、先に出てしまうことはもっと珍しかった。
どうしようもない。駅員は肩をすくめ、ファノンも肩をすくめた。天井近くに取りつけられた古いランプが風に揺られて、光を左右に散らしていた。
駅員に食ってかかることはしなかった。彼女は仕事をしているだけなのだし、彼女が最終列車を出発させたわけでもない。人生にはいろいろなことが起きるものだし、たとえ理由がわかったとしても何も変わらない。
ファノンは駅を出てとぼとぼと歩き始めた。もともと曇っていた空は、墨のような灰色となってファノンの頭上に広がっていた。今にも雨が降り出しそうに見えた。
かなりの田舎とはいえ、さすがに安ホテルやB&Bくらいはいくつもあるのだから、いざとなれば一人分くらいはなんとかなるだろう。ファノンは思った。だが、その考えは甘かった。フェスの客と出演者とスタッフで、どの宿も満室になっていた。
磯の香りに混ざる腐った魚の匂いがファノンの気持ちをさらに滅入らせ、うみねこの鳴き声が耳障りに響いた。
ネットで宿を探すこともできるのだが、それよりもファノンはアシスタントのイヴァナに電話をかけることにした。こういうことは自分でやるより得意な者にやらせたほうがいい。
「どうして事前に予約しないんですか、ファノンさん」
すぐに電話に出たイヴァナの声は眠そうだった。
「そりゃ、帰るつもりだったからさ」
人のいない道沿いのベンチにゆっくり腰を下ろすと、スマートフォンの光がぼんやりとあたりを照らす。電池の残量はあまりなかった。
「車で帰る人には乗せてもらえないんですか」
「俺が駅へ行ってる間にみんな帰っちゃったんだよ。薄情な連中だよ」
ファノンは拗ねるような口調になった。
「ちょっとだけ待っていてもらえばよかったのに。ファノンさんは、万が一ってことを考えないんですか。よくそれで保険の営業が務まりますね」
「万が一を考えるのは保険に入る客のほうだ。俺じゃない」
「本当に緊張感のない人ですね。どうせ手ぶらなんでしょう」
そのとおりだった。ファノンは財布もカバンも持たずにここへ来ている。どうやら俺よりも彼女のほうが俺をよく知っているらしい。ファノンは苦笑いした。
「日帰りのつもりだったからな。クレジットカードさえあればなんとかなるだろ」
ファノンは得意げに言ったがイヴァナは何も答えなかった。
しばらく沈黙が続き、やがてイヴァナの声が聞こえた。
「一軒ありました。島に」
島とは何だ。ファノンは首を捻った。
「湾の中に小さな島があるんです。定期船で渡れるようです」
島の半分は軍の施設だが残りの半分は民間地だという。
「部屋も空いていますね。ああ、よかった。カードも使えます」
「その島に宿があるのか?」
「ええ。もともとは何かの施設だったらしいのですが、今では一般の人も泊まれることになっていますね。ただし、レビューはゼロです」
どうやら毎年フェスに来る客も知らないのだろう。
「町に宿はないんだな?」
「もう一部屋も残っていませんね」
定期船か。ファノンはマリーナへ目をやった。大型のヨットがシルエットになっていた。その向こう側には黒々とした島の影が見えている。湾の中にある島だから、泳いで渡る者がいてもおかしくないほどの距離だ。
この町で船に乗る機会など二度とないだろう。悪くないな。
「おもしろそうだな」
ファノンはイヴァナに言って、島にあるというその宿に予約を入れてもらった。
「宿で夕食も用意してくれるそうです」
「そいつは助かった」
フェスの前に軽くサンドイッチを食べただけなのだ。フェスでさんざん体を動かしたあと、駅まで歩いて往復したこともあって、すっかり腹が減っていた。
ホワイトポイントと呼ばれる船着き場へ行くと、海に面して小さなプレハブ小屋が建てられていた。薄暗くなった港の中で、その小屋だけが電球の明かりでぼうっと浮かび上がっているようだった。ここが定期船の切符売り場らしい。小屋の向こう側に桟橋があり、五十人ほどが乗れそうな船が波に浮かんで上下していた。少しずつ人が乗り込んでいる。
意外に大きな船だなとファノンは思った。
ファノンは小屋に近づいた。灰色に塗られた鋼板の一部にドアと窓があった。窓には手書きの文字が書き込まれた紙がベタベタと貼られている。日時や時間帯によって運賃は細かく変わるらしい。運賃は現金払いで、乗船時間は五分だと書かれていた。
「それにしても」
紙を見ながらファノンは顔をしかめた。どうしてまっすぐ整えて貼らないのか。
小屋の中では、やけに大柄な中年女性が二人で大笑いしていた。二人が笑って体を揺するたびに小屋が揺れる。
「こんばんは」
「おや? 定期船かい?」
二人は笑うのをやめてファノンを見た。まだ頰には笑いが残っている。髪の量がやたらと多くて、帽子の代わりに巨大な綿菓子を被せているようだった。
「そう。定期船に乗りたいんだ」
「今日はもう終わっちゃったよ」
一人は笑いすぎで声が嗄れていた。
「あの船は定期船じゃないのか?」
ファノンは桟橋に着けられた船にあごを向けた。まだ人が乗り込み続けている。
「そうそう。あれが定期船だよ」
「だけど、もう定員いっぱいになっちゃったからねえ」
そう言って悲しそうなつくり顔で首を横に振る。さっきの駅員と同じ表情だとファノンは思った。
「一人くらいなんとかできないかな」
船の定員は法律で厳格に定められているが、この二人の緩さなら乗せてもらえるかもしれない。
「それは無理よ。だって決まりだからね」
「まあ、あんたがもっと細けりゃ、なんとかできたかもねえ」
「そうそう。私たちくらい痩せてたらね」
二人はそう言って大笑いを始めた。再び小屋がぐらりと揺れた。
「島に渡れないと、泊まるところがないんだ」
ファノンは懇願する口調で言った。
「あら、お兄さんだったらどこにでも泊まれるわよ、ねえ」
「よく見たら、なかなかの男前じゃない。ねぇ」
女性たちの目の奥に媚びるような色が浮かんだ。僅かに科をつくる。
「いや、そっちは遠慮しておくよ」
ファノンは手を振って二人に別れを告げた。
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