東京急行とその沿線と阪神急行とその沿線 どちらもえーけど、阪急かな、ええなあというのは

2024-02-23 13:53:12記録時間

東京急行とその沿線と阪神急行とその沿線 どちらもえーけど、阪急かな、ええなあというのは





あのチヨコレイトは色として

いいですね

安心するのです

いつも


座席もいい塩梅で


淀の川の流れのように

穏やかな内実が

自分は安心ですね

あーー

ほっとすると云う事


山崎の山と

何本も流れを集めた川は




いつでもいい

ほんまに落ち着く處なのです


西国の街道を往来して

天王山にも上って降りるとか


いいね


向うに

鳩が峯もあるし




はちまんさん


御幸の通りを真っ直ぐ

都に

向かうのも


いいですし


水邊


山愛


正に

安寧

平安

と云う事

安本です



南山堂


浪速津

難波


南と北と

ひむかしと

にしむかい


住之江


わたなへのつ


なども

あることでも

内の海の名残もあって

浦もありまし

生駒の山並みもえーですね


しょかの里も

あるし

櫻井や

やまのへの道なりも

壷井は

香炉峰




ですね


昔から

ようけ

ありがとう

という處ですわ




さんきゅう

べりべりまっちょ



とつかわのお父さんは

心臓は

大丈夫かな



熊野は全部

つれていってくれはりましてね



いかったね


あの時は

台風前日ですけども


尾張と

参河の

往来ですしね


和歌山を経由して

また

難波から

大山崎も経由して

そして

参河も参る

知多も向かいますし


篠島や

日間賀島もある次第ね




南山堂敷島院滔滔鹿慈寺




南山堂







箕面有馬電気軌道 - Wikipedia


同社関係者は後、阪神電気鉄道や京浜電気鉄道の事例に倣って、汽車ではなく新たに出現し始めていた軌道条例準拠の電車による運転を画策した。1906年に、箕面有馬電気鉄道として特許を取得した[3]。1907年10月に創立総会が開かれ、専務取締役に小林一三、取締役に井上保次郎、藤本清兵衛、松方幸次郎、志方勢七、監査役に野田卯太郎、速水太郎、平賀敏が選任される[4]。

社名の通り、予定路線には当初計画の梅田 - 池田間のほか、池田 - 宝塚 - 有馬間の延伸線と箕面への支線が含まれていた。免許が早期に下りた背景には、阪鶴鉄道買収の補償という観点もあったとされる。

だが直後に起こった恐慌で、株式の引受手が資金の払い込みを躊躇し、約半分の株が引受手無しという苦境に陥った[3]。そこへ乗り出してきたのが、当時恐慌で失職していた小林一三である。彼は路線の有望性を見抜いてそれをかつての上司で北浜銀行の頭取だった岩下清周に説いた[3]。そして、阪鶴鉄道買収直後の1907年10月19日、箕面有馬電気軌道が設立された[3]。鉄道を軌道と改めたのは、軌道法準拠ということだからという、国の要請のためであったといわれている。

ともあれ工事は開始され、1910年3月10日に梅田駅 - 宝塚駅間と石橋駅 - 箕面駅間を同時開業させる[5]。なお、このときは軌道(路面電車)扱いであったことから、梅田駅 - 北野駅(廃駅)・十三駅 - 三国駅・豊中駅 - 石橋駅・桜井駅 - 牧落駅間に併用軌道が存在した。

沿線開発
しかし、阪神電気鉄道(大阪-神戸)や京浜電気鉄道(東京-横浜)、京阪電気鉄道(大阪-京都)のように大都市間を結ぶ路線でもなく、さらには沿線が田園地帯であったことから、採算が取れないのではないかという懸念が周辺では強かった。その様は「ミミズ電車」と揶揄されるほどであった。

いざ開業してみれば営業成績の方は良好で、開業間もない頃の収入は当初予定の2倍になったという。だが一方で、開業から8日間の間には早くも列車衝突事故を2件起こし、3名が死亡するという事態にも至っており、大阪毎日新聞にも書き立てられた。

そんな中、同社の専務(社長不在のため、実質的には代表者)となった小林一三は、路線の敷設に先立って周辺の土地を買収し、その開発を行って増収につなげるという施策をとった[3]。まず路線の開業した1910年、池田で当時珍しかった月賦方式による住宅分譲を開始した。同年11月には箕面に日本最大級の広さを誇る箕面動物園、1911年5月には宝塚に新温泉を開いた[3]。1913年には現在の宝塚歌劇団の前身となる、宝塚唱歌隊も創設した[3]。

これらの施策は予想通り収益の増加をもたらし、他の私鉄による沿線開発の範ともなった。小林はこれに関して、「乗客は電車が創造する」という言葉を残している。



岩下清周 - Wikipedia


岩下壮一さんの父君







岩下 清周(いわした きよちか、安政4年5月28日(1857年6月19日) - 昭和3年(1928年)3月19日)は、実業家、起業家、政治家。三井財閥を経て北浜銀行(三菱UFJ銀行の源流)を起業後は当時のベンチャー企業への積極的な融資を行い、自身も融資先の経営に積極的に携わった。関西大手私鉄である阪急電鉄(阪急阪神ホールディングス)及び近畿日本鉄道(近鉄グループホールディングス)の事実上の創設者であり、豊田式織機 (現:トヨタ自動車)や森永製菓、大林組など現代日本を代表する企業の草創に活躍した。息子は、カトリック司祭で哲学者の岩下壮一、清周本人も立教学院に学び聖公会に所属したクリスチャンであった。

来歴・人物
信濃国松代城下代官町(長野県長野市松代町)に松代藩士の岩下佐源太の次男に生まれるが、ほどなく実父が死去したため、3歳で叔父の岩下章五郎の養子となる。松代藩兵制士官学校を卒業すると上京し[1]、1874年(明治7年)築地の立教学校(現在の立教大学)へ入学し、チャニング・ウィリアムズに立教学校1期生として英学を学んだ[2]。立教学校時代の友人には、日本初のシェイクスピア劇翻訳者となった河島敬蔵がいた[3]。 1876年(明治9年)、前年に開設された東京商法講習所(現・一橋大学)が木挽町に移転して開設されると、同所に入学し商業学を学ぶ[注釈 1][5]。 1878年(明治11年)3月に三菱商業学校が開設されると、商法講習所の卒業を待たず転校した[注釈 2]。三菱商業学校は開校時に1回生8名の生徒を有したが、その中に岩下の他に岩崎久弥(三菱財閥3代目総帥)がいた[6]。その後、一時期、商法講習所の教諭となり、矢野二郎所長門下の秀才と謳われたのち三井家に入った[7]。

1878年(明治11年)、三井物産入社。1880年(明治13年)同社ニューヨーク支店長、1883年(明治16年)から1888年(明治21年)まで同社パリ支店長。1889年(明治22年)同社退社[3]。パリ支店長時代に桂太郎、寺内正毅、山本権兵衛、斎藤実といった陸海軍の官僚と親交があり、中でも外務省時代の原敬とは親友となった[8]。

1889年(明治22年)三井物産創立者である益田孝らと品川電灯を設立、同社社長就任。翌年、桂太郎の実弟桂二郎と杉村二郎が創立した関東石材会社の経営改善のため取締役に就任したが、進展が見られず、1891年(明治24年)の秋に同社を辞した[1]。同年、中上川彦次郎が経営改革に当たっていた三井銀行本店に入り副支配人となり、1896年(明治29年)、同大阪支店長時代には大阪・関西財界での強力な人脈網を中上川に批判され衝突、1893年(明治26年)王子製紙取締役。1897年(明治30年)、三井銀行を退社し、北浜銀行設立。同行常務を経て、1903年(明治36年)から頭取。「日銀幹部ストライキ事件」では、中上川が支援した山本達雄総裁らに反発し、鶴原定吉、植村俊平、藤尾録郎らの免職された東大出身者らを積極的に住友など関西財界に紹介した[9]。

1906年(明治39年)大阪ガス監査役[10]。1907年(明治40年)阪神電気鉄道取締役[11]。1908年(明治41年)には政界に進出し衆議院議員当選。同年箕面有馬電気軌道(現:阪急阪神ホールディングス)初代社長[12]。西成鉄道社長、電気信託会長等も務めた。大軌では生駒トンネル建設案を出し、実現させている。他にも大林組の設立、南満州鉄道副総裁。豊田佐吉の豊田式自動織機の支援等にもかかわる[13]。

1910年(明治43年)営口水道電気設立、同社社長[1]、森永商店(現:森永製菓)相談役[14]、武蔵電気鉄道取締役[15]、鬼怒川水力電気取締役[16]。1911年(明治44年)帝国商業銀行取締役[1]。1912年(明治45年)東京横浜電鉄取締役[17]。1913年(大正2年)大阪電気軌道(大軌、現:近畿日本鉄道)第2代社長[18]。同年、後ろ盾でもあった桂太郎が死去。1914年(大正3年)、大林組や大軌などの営業不振による債務焦付きで、北浜銀行が破綻し逮捕された。同年経営破綻した鈴木藤三郎の鈴木農場を不二農園と改称して、お茶工場の設立などを行って経営再建にあたった[19]。

1915年(大正4年)背任罪等で起訴される[1]。1920年(大正9年)には不二農園労働者のために、温情舎小学校(現:不二聖心女子学院中学校・高等学校)を設立し、初代理事長に長男岩下壮一神父を据えた[20]。1924年(大正13年)には懲役3年の判決が言い渡され収監されたが、10ヶ月後に恩赦で出獄し[7]、晩年は富士山麓で不二農園の運営に従事した[13][1]。

栄典
1911年(明治44年)8月24日 - 金杯一組[21]
家族
父:岩下左源太 - 松代藩士[22]。
養父:岩下章五郎[22]。
妻:幽香子 - 松代藩士・弥津繁人四女、渡辺驥養女。
長男:壮一 - カトリック司祭。
長女:花子 - 岩倉具光(岩倉具視の孫[23])夫人。
二女:雅子 - 山本三郎(海軍少将・山本信次郎の弟)夫人。
三女:亀代子 - 聖心会修道女。
妾(氏名不詳)
次男:次郎[24] - 庶子。西宮市で出生。
脚注
[脚注の使い方]
注釈
^ 東京商法講習所は、木挽町に移転した際に東京府立となり、矢野二郎が所長に就任した[4]。岩下は、東京商法講習所の看板を発見し、同所を訪ね、矢野の知遇を得て、入学することとなった[1]。
^ 岩下は矢野のもとを去ることとなったが、三菱商業学校で学んだ後、一時母校の商法講習所の英語教師につくなど、三井物産入社まで引き続き矢野の世話を受けていた[1]。
出典
^ a b c d e f g h 黒羽雅子「企業勃興を牽引した冒険的銀行家 : 松本重太郎と岩下清周」『法政大学イノベーション・マネジメント研究センター ワーキングペーパーシリーズ』第38巻、法政大学イノベーション・マネジメント研究センター、2007年6月、1-22頁。
^ 小林一三: 都市型第三次産業の先駆的創造者 老川慶喜
^ a b 老川慶喜「立教人物誌 : 岩下清周」『立教学院史研究』第1巻、2003年3月、180-183頁。
^ 一橋大学 沿革(2022年5月13日アーカイブ) - 国立国会図書館Web Archiving Project
^ 「岩下 清周(読み)イワシタ セイシュウ」20世紀日本人名事典の解説
^ 宮本 又次「大阪における商業・経済教育事始て」『大阪大学史紀要』第1巻、大阪大学五十年史資料・編集室、1981年5月、17-24頁、ISSN 03897621。
^ a b 岩下清周 (男性)人事興信録データベース第8版 [昭和3(1928)年7月](名古屋大学大学院法学研究科)
^ 佐久間健『近代日本における財界の形成-外債と金本位制をめぐる政治過程-』 早稲田大学〈博士(政治学) 甲第5031号〉、2017年。 NAID 500001033607。
^ 岩下清周 いわした きよちか国立国会図書館
^ 大阪瓦斯(株)『大阪瓦斯五十年史』(1955.10)渋沢社史データベース
^ 阪神電気鉄道(株)『輸送奉仕の五十年』(1955.04)渋沢社史データベース
^ 「京阪神急行電鉄(株)『京阪神急行電鉄五十年史』(1959.06)」
^ a b ふるさと松代人物館信州松代観光協会
^ 森永製菓(株)『森永五十五年史』(1954.12)
^ 東京横浜電鉄(株)『東京横浜電鉄沿革史』(1943.03)
^ 小田急電鉄(株)『小田急五十年史』(1980.12)渋沢社史データベース
^ 東京横浜電鉄(株)『東京横浜電鉄沿革史』(1943.03)
^ 近畿日本鉄道(株)『50年のあゆみ』(1960.09)渋沢社史データベース
^ 「不二農園100周年」不二聖心女子学院 中学校・高等学校
^ 学院の歴史 不二聖心女子学院 中学校・高等学校
^ 『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。
^ a b 『人間の分際 神父・岩下壮一』P.44
^ 『人間の分際 神父・岩下壮一』P.194
^ 『人間の分際 神父・岩下壮一』P.105、135
参考文献
『新訂 政治家人名事典 明治〜昭和』(2003年、編集・発行 - 日外アソシエーツ、79頁)
『長野県歴史人物大事典』(1989年、編集・発行 - 郷土出版社)
『岩下神父の生涯』(1961年、小林珍雄著 発行 - 中央出版社(現・サンパウロ)(1988年、伝記叢書25 発行 - 大空社))
『人間の分際 神父・岩下壮一』 (1996年、小坂井澄著 発行 - 聖母の騎士社)
外部リンク
『第二十八議会衆議院議員写真列伝』 経済時報社編輯局、1912年(国立国会図書館デジタルコレクション)顔写真及び略歴
岩下清周|近代日本人の肖像(国立国会図書館) - 肖像写真及び略歴

先代
初代
箕面有馬電気軌道
(現:阪急阪神ホールディングス)社長
初代:1908年 - 1915年
次代
平賀敏
先代
廣岡惠三
大阪電気軌道
(現:近畿日本鉄道)社長
第2代:1913年 - 1914年
次代
大槻龍治











益田孝 - Wikipedia

益田 孝(ますだ たかし、嘉永元年10月17日(1848年11月12日) - 昭和13年(1938年)12月28日)は、日本の実業家。男爵。三井合名理事長。

草創期の日本経済を動かし、三井財閥を支えた。明治維新後、世界初の総合商社・三井物産の設立に関わり、日本経済新聞の前身である中外物価新報を創刊した。茶人としても高名で鈍翁と号し、「千利休以来の大茶人」と称された。

経歴
佐渡国雑太郡相川町(現在の新潟県佐渡市相川)に生まれる。幼名は徳之進。父の鷹之助は箱館奉行を務めた後、江戸に赴任。孝も江戸に出て、ヘボン塾(現・明治学院大学)に学び、麻布善福寺に置かれていたアメリカ公使館に勤務、ハリスから英語を学ぶ。文久3年(1863年)、フランスに派遣された父とともに遣欧使節団(第二回遣欧使節、または横浜鎖港談判使節団)に参加し、ヨーロッパを訪れている。ヨーロッパから帰国後は幕府陸軍に入隊。騎兵畑を歩み、慶応3年(1867年)6月15日には旗本となり、慶応4年(1868年)1月には騎兵頭並に昇進した[1]。

明治維新後は明治2年(1869年)から横浜の貿易商館ウォルシュ・ホール商会に事務員として1年間勤務して多くの商取引を見聞したのち、自ら中屋徳兵衛と名乗って輸出商を手掛けた[2]。この時期仕事仲間から紹介された大蔵大輔(大蔵次官)の井上馨の勧めで明治5年(1872年)に大蔵省に入り、造幣権頭となり大阪へ赴任し、旧幕時代の通貨を新貨幣にきりかえる任にあたった[2]。翌明治6年(1873年)に尾去沢銅山汚職事件で井上が下野すると益田も続いて職を辞した。翌明治7年(1874年)には、英語に堪能だったこともあって井上が設立した先収会社の東京本店頭取(副社長)に就任。明治9年(1876年)には中外物価新報を創刊。同年、先収会社を改組して三井物産設立と共に同社の初代総轄(社長)に就任する。三井物産では綿糸、綿布、生糸、石炭、米など様々な物品を取扱い、明治後期には取扱高が日本の貿易総額の2割ほどをも占める大商社に育て上げた。

三井物産が設立されてからは、渋沢栄一と共に益田の幕府騎兵隊時代の同期生の矢野二郎(商法講習所所長)を支援したため、物産は多くの一橋大学出身者が優勢を占めた。三井内部では、工業化路線を重視した中上川彦次郎に対して商業化路線を重視したとされている(但し、後述の三井鉱山の設立や團琢磨を重用したように工業化路線を軽視したわけではなかった)[3]。さらに、三井財閥総帥であった中上川の死後実権を握ると、経営方針の中で、中上川により築き上げられた三井内の慶應義塾出身者を中心とする学閥を排除することを表明し、中上川の後継者と目されていた朝吹英二を退任させ、三井財閥総帥には團琢磨を、三井銀行には早川千吉郎を充てた[4]。

また、工部省から三池炭鉱の払下げを受け、明治22年(1889年)に「三池炭鉱社」(後の三井鉱山)を設立、團を事務長に据えた。明治33年(1900年)に台湾製糖設立。大正2年(1913年)、辞任。

大正7年(1918年)、男爵に叙される。昭和8年(1933年)、家督を長男に譲り財界の第一線から引退したが、わずかに三井合名顧問、自ら立ち上げた益田農事株式会社社長の肩書は残した。昭和13年(1938年)12月18日、風邪に気管支炎を併発して神奈川県小田原市の自宅にて療養を開始。同年12月27日に昏睡状態に陥り、翌12月28日に死去[5]。墓所は護国寺にある。

数寄者として
明治中期頃から茶道をたしなみ、明治39年(1906年)には小田原市の板橋に別邸掃雲台を造営し数多くの茶席を建てた。このことが後に近代茶人らが小田原・箱根へ集まる初めとなっている。近代小田原三茶人の1人としても知られる。
趣味の茶器収集も有名であった。「鈍翁」の号は、彼が収集した茶器の1つ「鈍太郎」(表千家6世家元・原叟宗左の製作)に由来する。
佐竹本三十六歌仙絵巻や西本願寺本三十六人家集の切断に関わる中心人物であった。切断は彼の自邸で行われるなど便宜を図っており、その評価は分かれるところである。
弟で実業家の益田英作も野々村仁清作の色絵金銀菱文茶碗(重要文化財)などに代表される収集家である。また、共に箱根強羅の別荘地開発に深く関わった。大正15年(1926年)には慶應義塾大学医学部に寄附を行い、食養研究所が設立された[6]。
栄典
1925年(大正14年)12月1日 - 従四位[7]
系譜
瓜生繁子(日本最初の女子留学生の一人)は実妹。
本妻の栄子は旧友矢野二郎の妹。絶世の美女と言われ、孝の懇願により結婚に至った。結婚式は戊辰戦争勃発の前日、益田家で行なわれ、花嫁の栄子を乗せた駕籠が4人の担ぎ手によって客間の真中に運びこまれた様子を、妹の繁子が回想録に綴っている[8]。
長男は夭逝。次男に劇作家・益田太郎冠者。妾との間に生まれた三男は初代小田原市長の益田信世。歌手・岩崎宏美の前夫や、幻生社取締役の英子は孝の玄孫にあたる。
福澤諭吉と縁の深い益田克徳(非黙)や益田英作(紅艶)は実弟で、兄と同じく財界数寄者であった。英作は貿易商[9]
孫娘の吉田多嘉は信世の娘でもあったが、孝の妻の姓を引き継いだ。多嘉は当時人気の野球選手だった小川年安(慶大→大阪タイガース)を婿に迎えた[10]。
妾のたき子は、益田の数寄者仲間である山縣有朋の妾・貞子の姉[11]。姉妹は元芸妓。
三井家との関係
脚注
[脚注の使い方]
^ 小川恭一 1997, p. 2514.
^ a b 益田孝(後編)三井広報委員会
^ 『メガバンク学閥人脈』(山口日太郎、新風社、2006年7月) P120、P126
^ 『メガバンク学閥人脈』(山口日太郎) P124
^ 三井の大番頭・貿易業界の先覚、死去『中外商業新聞』(昭和13年12月29日夕刊)『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p687 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
^ 慶應義塾大学医学部食養研究所変遷史
^ 『官報』第4025号「叙任及辞令」1926年1月27日。
^ 今井一良「瓜生 (永井) 繁子の英文「日記」と「回想記」」『英学史研究』第1985巻第17号、日本英学史学会、1984年、7-17頁、doi:10.5024/jeigakushi.1985.7、ISSN 0386-9490、NAID 130003624793。
^ 『二代芸者 : 紅灯情話』 安藤せん子著 (新栄社, 1913)
^ 探墓巡礼顕彰会-歴史研究会連携団体による墓碑調査プロジェクト-(鶴見総持寺調査)
^ 『明治美人伝』長谷川時雨
関連文献
「自叙益田孝翁伝」 (長井実編、中公文庫) 口述筆記を元にしている
白崎秀雄 「鈍翁・益田孝」〈上・下〉 (新潮社/中公文庫)
松永秀夫 「益田孝天人録 横浜で実学を修め三井物産の誕生へ」(新人物往来社、2005年)
小川恭一『寛政譜以降旗本家百科事典』東洋書林〈第1巻 第2巻 第3巻 第4巻 第5巻 第6巻〉、1997年。 NCID BA32777714。, ISBN 4887213034, ISBN 4887213042, ISBN 4887213050, ISBN 4887213069, ISBN 4887213077, ISBN 4887213085
馬場あき子 ほか「秘宝三十六歌仙の流転―絵巻切断」日本放送出版協会 1984年
齋藤康彦『益田鈍翁 近代数寄者の大巨頭』(宮帯出版社、2023年)
関連項目
三井家
大野鈍阿
原富太郎
野崎廣太
矢野二郎・尺振八 - 若年期からの友人。
松永安左エ門
松永記念館 - 掃雲台の九重石塔など数多く移築、展示されている。
強羅公園 - 鈍翁が造営し原富太郎(三渓)、さらに松永安左エ門に譲られた白雲洞茶苑が公開されている。
外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、益田孝に関連するカテゴリがあります。
益田孝 | 近代日本人の肖像
港区ゆかりの人物データベースサイト・人物詳細ページ(益田 孝)
爵位
先代
叙爵 男爵
益田(孝)家初代
1918年11月26日 - 1933年4月21日 次代
益田太郎
ビジネス
先代
創立 三井物産社長
1876年7月1日 - 1892年4月 次代
三井高明
先代
新設 三井物産専務理事
1894年10月 - 1903年12月 次代
渡辺専次郎

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