平鹿 たいらかなひらか 出羽国平鹿郡の事とその居住した人々

武家家伝_平賀氏 (harimaya.com)

平賀城 埋もれた古城  (umoretakojo.jp)


鶴千羽を放生したのは
桟敷で観ている源朝臣の頼朝さん
大勢の人々を処断した
積み上げたあし事の償いと埋め合わせで
小さな稚貝や稚魚を放す事で
その生命をものとして慈しみ増す事を
自分から知り尽くして
実践すること

これは

アショカ大王のした事です

紀元前の事
印度の大陸を統制したのは
あしょか(あそか)あすか

鳥の飛ぶ姿は
日輪に向いて死者の環を運ぶからです
鳥は
天の鳥舟


天円
地方

方とは
強制にして従わせる事ですので
四角四面にして
向けと
主人と奴隷の関係を意図して構築して
制覇するから大王といいますけども

祭司ではないから

生命を摘みましたね
どんどんと
生木を薙ぐ太刀で
そのようにして
人を大勢殺していしまうので

回心
conversionしたのです

コンバトラーV
です

ほんとの勝利者とは
そして安寧で安泰を必要十二分に甘い雨垂れのよに
すめらきですので

しゅめーるというのは
高い高い山です
その上に
ブラフマの居ますから
全てを産みだした者です

その方の意向を知った者を
PHUTALA
ですので
安寧やすとき
です

たいらかにするのは
自自新の内部真心の事だと

はっきりと気が付き

太陽をみて
あの光子の常に濯ぐ事で
注ぎこむ事を
心に明確に描きますから
それで
隣人にいつくし
世話し
滋養ある品物を
無償で与え尽くせる
大王君となるという次第なのでした

大輪とはそう云う事

ちゃくらといいますけども
わっかのことです



大輪
大和











平鹿と平賀

ひらか

ひらが

いではの国津

越國からではっているのでいではねつるくに

保呂羽根出る村里山川郷 
郡と國府は、出羽の柵 秋田城柵に成るが
それは
諸外国との交戦も予測しているからです

北東は鬼の門
南西も鬼の門

それは
やまとう
ならやま
南良
奈羅
安寧羅安らか
たいらかなみやこ

御屋家
すめらきみことのいすますところ
御所
内裏

日の当たる山の蔭

その
いすまいを
全て全方位守護保護防衛し
八重垣の八重垣とする事です

囲い地の防衛都市とする旨の事
主旨はそこにあり

各門は

三か門
内裏は禁域
誰でもは入城できない
城門のある都



八洲敷島秋津洲ですので

海を渡し津の女もある事
船津もあり
船戸もあり
道先知る事こそ吉兆を判別する必要もあって

亀の甲羅を腹部を木で傷をつけてから炭で焙る事で
解かれます
その方角で
観る
あらかじめ観る

天の星の印や

先知る吉兆
きざし

鬼とは
その昔の人々の帝の意向を受けて
地方に向いたその貴人の末裔であって
塩竈の界隈から上陸して山の奧のまた奥にすゝめて参る

熊もいてるし
狼もいているし
宇崎兎
角のある生き物とか間違うし
亀に毛があるとか見間違うし
など
佐竹も
一つの刺さ竹の光る物あるという事ですし

白滝の滝つぼも白光
岩から水も湧きでて白光とか

白雲も紫雲もあるし

霞雲の中に
青い衣類の光女神のような二楽の観世音菩薩(ぼでーさとば)のあるとか
金鶏や金鷲ややあたのからす

てながの者や
あしながの者とか
います

熊の毛皮を羽織り鹿角を頭に身に着けて
弓と矢と馬にまたがる人々などいてますし



脅しの聞いた
威丈強者もあって
みなみな

尊意の無き物は処刑されてしまう

弓の力は数倍違い
箭には毒のまぶした矢じりもあるし

なかなか
楽園都市が
実は
陸奥の国と
出ではる
ほろはねのふるふる国
睦成の国ですね
その海

津登尾刈る

オンガる
えん遠刈る

つんがる


都かかかる

ちかかる
すけかかる

とおかかる

横川
助川
川辺

添川


主樽将
副う将

征夷大将軍

えびす
恵比寿
海老須
蛭子

舟に乗って来たものたち













平賀二郎有国

印東治郎左衛門尉祐昭娘
六老僧の一人
弁阿闍梨日昭は俗伯父
日像さん
日輪さん

異父弟



日像 - Wikipedia


『本土寺は元々日朗・日像ら日蓮門人を輩出した平賀忠晴の屋敷跡と伝えられ、後に日蓮の支援者であった千葉氏家臣曽谷教信が法華堂を建立したとされている。後に日朗が本土寺として開堂供養した(実質的な開山は、日朗門人の日伝であったとする説もある[2])。』


『日朗(にちろう、寛元3年4月8日(1245年5月5日(ユリウス暦)) - 元応2年1月21日(1320年3月1日(ユリウス暦))は、鎌倉時代の日蓮宗・法華宗の僧。日蓮六老僧の一人。号は筑後房。大国阿闍梨とも称する。日朗門流・池上門流・比企谷門流の祖。下総国の出身。父は平賀有国。』

日朗 - Wikipedia


本土寺 - Wikipedia


印東祐昭さんの娘さんの事


下総国
葛飾郡
平賀



平賀有国
平賀二郎有国さんの室となる事
その御子さんは
日朗
1245年生
日蓮弟子
1282年池上宗仲
池上本門寺基礎

平賀忠治
平賀左近将監忠治

日蓮弟子
日像
1269年生
日輪
1272年生

日蓮さんは
妙朗尼と呼称したんだそうです。

ぼたもちを鍋蓋に載せて差し上げたとか
日蓮さんが逮捕されたとき
江の島の方面から光物あって

瀧の口腰越え附近処刑場


太刀きりできなかったという事象があることだそうで
その後に
佐渡島に流罪などですが
面倒を
世話を申し出入る方も当然いたのです




平賀有国さんと
平賀忠治さん(または忠晴さん)に嫁ぐ
印東祐昭の娘さん

鎌倉府作事奉行
池上左衛門大夫
池上康光さんにも室として入る

池上宗仲
いけがみむねなかさん
池上氏館
1282年
日蓮さんは今の池上の本門寺
昔の居館(池上さんの)
入滅した。

という流れ

蒙古元寇の侵害の事
予告して
何度も流罪となる次第であったが
その通りと云う事ではあった







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?