ここに私か、私がここか



[問い]


水は、降りてきた。
雨として山に滲みこんで、どこかに湧き出たのだ。
どこか。知っていたような知っていなかったような。
湧き出るほどのやる気がありながら、ほんの少し不安だった。そんな気がする。

湧き出たら、流れなければならない。少なくとも、このような傾斜があるのだから。
傾斜は、きついのかゆるいのかわからない。ここしか知らない。
多分、ここしか知らないと思う。忘れているのかもしれない。
忘れているのなら、覚えていたのかもしれない。
いずれにしても、もう私は流れている。今、流れている。
滾々とした波に押されながら。
こんこんという音が、遠く耳に響いている。
……

おっ
凄い勢いで降りた。
突然のことだった。
もう目を開くしかなくて、そうすると空が見えた。
背の高い木がたくさん、空に向かって伸びている。
私たちを囲むように。私たちを覗き込むように。
これが木の匂いか。
そういえば、こんな匂いだったような。
安心と、期待と。応えたい気持ち。
期待は、したのかもしれないし、されたのかもしれない。
嬉しい。

私たちは波になって順番に流れる。
順番というのは曖昧なものだ。
合っているのか合っていないのか、判断できなかった。
流れに乗った(ように思われる)今でも、正直、判断できない。

傾斜を流れていくには選択がつきものだ。
選ばなければならないと思う。
きっと上手く選べる。
ここまで数回の分岐は、上手く選べてきた。
上手く選べてきたはずだ。

だって私には不満がない。
もう少し温かくて、もう少し穏やかな場所ならいいのに、と思うくらいで。
もっと楽しいことがあったらいいのに、と思うくらいで。
死のうとも思っていないし。
生きようとも、まぁ。

そういえば
他の者たちは、どこを流れているのだろう。
私と共に降りてきた、共に湧き出た、私のような彼ら。
分岐の度に違う選択をしてきた。元気でやっているだろうか。
私は間もなく停滞する。少し先に見えているあれは、おそらく淀だからだ。
この先の私は元気でやっているだろうか。
……今の私は?
元気といえるのだろうか。

どこまでの私なら元気だったのだろう。
あの時やあの時、他の流れを選んでいたら、元気なままでいられたのか。
そうかもしれない。
もっと健やかな流れに乗れたのかもしれない。
けど、そうでないかもしれない。
だって、どこを選んでも、私だから。
……本当に?

決められた流れの途中に、今の私がいるのかな。
それとも私が、今も流れをつくっている途中なのかな。

ここに私がきたのか、私がここになったのか。

そうして、
うつうつと眠りに落ちた。



[思い出したいのに]


予想した通り、私は淀んでいた。
さっきまで見ていた夢、どんな内容だったっけ。
そう思った時には既に、淀の一部になっていた。

流れなくてはならないのに。
ここで止まっている暇はないのに。
暇なのに、そう思う。
いや、忙しいのは忙しい。ここから抜けなくてはいけないし。
そのためには、じたばたしないといけないし。
もとの流れに戻らないといけない。
戻りたいのかは、わからないけど。
そのために忙しい。だから、楽しくはない。
何か楽しいことないかな。暇だな。
忙しいのに。

何か楽しいこと、
今朝の夢は、どんな内容だったっけ。楽しかったかな。
思い出せない。
私は何故こんなに忙しくて、こんなに暇なのかな。
思い出せない。
何が楽しかったのか、
何をしたら満たされるのか。
水なのに、からからだ。

彼らは今どうしているだろう。
健やかに流れているだろうか。
きっと流れているんだろう。いいな。
私、上手く選んできたと思っていた。
でも、どうやって選んできたのかは、思い出せない。
いつの間にか、忘れていた。

私、特別なんじゃなかったっけ。
そう聞いた気がしたのに。誰から聞いたのかも、忘れてしまった。
私が思い出したいのは、私が特別だということ?
それも忘れた。
あれもこれも、どれも忘れてしまった。
思い出したいのに。

途方に暮れて、
それで、暇な気持ちで忙しくするのをやめた。
ひとまず、暇な気持ちで暇になってみる。
……

へぇ
ここには、虫がよく寄って来ることに気づく。
ぼーっと見やっていると、虫の方でも気づいた。
暇そうなのがいる、話しかけてもよさそうだ、
そう思ったのかもしれない。

「楽しい?」
「そう見える?」
「見えなくはない。わからないから訊いたんだ」
「そっか。楽しくない。私もわからないことを訊いていい?」
「わかるかわからないけど、いいよ」
「私は何を思い出したかったんだろう、わかる?」
「何かはわからない。けど、気持ちは、なんとなくわかる」
「あなたも、こういう気持ちになるときがある?」
「ぼくは、あんまりないけど。向こうの川で、同じような声を聞いたから」
「向こうにも淀があったの?」
「向こうは流れてたけど。でも、同じような感じの声だったから、水はそうやって思うことがあるんだなって。そういう、わかる」
「へぇ。楽しそうな声もあった?」
「あったよ。声っていうか、雰囲気?だったけど」
「いいなぁ。その水は特別なのかも」
「特別なの?」
「だって、楽しそうなんでしょ?」
「うん。でも、君も水でしょ。君と似た声も、水でしょ?」
「うん」
「うん」

「またね、どこかで」と言って、虫は行った。
どこかで。
私は、その言葉を思い出している。



[流れる]


翌朝、私はまた流れていた。
流れていこうと思ったからだ。
流されるのではなく、流れに乗るのでもない。

周りの景色がぐんぐん変わっていく。
日光が私の輪郭を輝かせ、更に奥まで照らしている。
一瞬。
私は私が何者なのか、感じた。
そんな気がする。

そして、彼らを思う。
私たちは山に降り、共に土から湧き出た者。
向こうの川は私だったかもしれないし、
この流れは彼らだったかもしれない。
だけど確かに、水なのだ。
彼らに溶けているのは栄養で、
私に溶けているのは毒かもしれない。
それでも元は、水なのだ。
何の変哲もない、同じで、違う者。

同じで違うことについて、あの虫はどう思うかな。
わからないだろうか?
いや、わかるだろうな。
だってあの虫は、感じることも考えることもできていたのだから。
私はといえば、つい最近までどちらも止めていた。
今やっと思い出したところだ。
私が何者であるか。
何を喜び、楽しもうとしているか。

私は流れていく。
私に溶けた毒も。どこか、毒と呼ばれないところへかえるのかもしれない。
毒が抜けて、手持ち無沙汰になった。
けれどもそれに代わる喜びを、間もなく見つけられる。
なぜなら私は流れている。
喜びの形も、思い出した。
そう思うだけで、既に楽しくなってくる。

この音、匂い、温かさ。
変化していくままに、変化していく私。
私の輪郭。
それを意識すると感じる、周りの肌触り。
私が触っているのか、周りから触られているのか、それはどちらでも良い。
ただただ、くすぐったい。
みぞおちから波が込み上げて笑い出す。
笑いが声になって、辺りに響く。
少し離れたところに居る草や木が揺れたのだろう、
鳥が一斉に飛び立つ気配がして
それが、閉じていた私の目を開かせた。

からだを見つめる。
私だと思ったし、私ではないかもしれないと思った。
空を見上げる。
当たり前に見ていると思っていたのに、随分久しぶりだと気づいた。
懐かしい、いつかの空を思い出す。
あの日、目覚めた私を見守っていた木々、その奥に広がっていた、あの空。
空がうつくしい。
空を映した私のからだもうつくしい。
初めてそう思った。



[ここ]


次の分岐も、その次の分岐も、選ぶことが楽しかった。
流れたくないときは淀に入った。
そんなときは、じっと目を閉じていた。
そうするうちに、また流れたくなって、
そんなことを繰り返すうちに、眠るとき以外あまり目を閉じなくなった。
眠るときは目を閉じて、小さな音をきいた。
潜るように眠って、浮かぶように起きた。
たまに虫と会話して、向こうの川を思い、空をからだに映した。

今ここに、私は来たかったんだという気持ちになる。
木が居て、空を映せて、流れていける場所。
安心できて、私自身を信じて、変わっていける、私が望んできた道程。
道程の長さはわからずとも、目指す場所には繋がっている。
そのことに対する喜びが、ほんの少しの労いや励ましと共に湧き上がってくる。

私は今、ここになっているという気持ちにもなる。
木が居て、空を映せる私が、流れている場所。
それがここなのだ。私は、ここという刹那的な場所の一部なのだ。
私が居ないと成立しない、うつくしい瞬間。
そのことに対する喜びは、緊張感を心地良いものとして連れてくる。

望んだ道程は、決められた流れだったのだろうか。
仮にそうであったとして、私の感じてきたたくさんの気持ちは、私にとって価値のないものになるだろうか。
うつくしい瞬間、その流れをつくっているのは、私だろうか。
それについては頷こう。しかし、その瞬間を成立させているのは私だけ、なのだろうか。

晴れた空から新しい雨が降って来る。
なぜだろう、大して驚かなかった。それをからだに受けながら、むしろ穏やかな心地になる。
私のからだは波打ったが、そのときできた波紋は、周りと手を繋ぐようだった。

ここに私が居ることと、私がここであることは、同じなのかもしれない。
それは、
私以外の者、またその者たちとの関わりを肯定することによって、私自身を肯定すること。

……
向こうの川でも、同じようなこと考えているのかな。
向こうの川は遠いけど、こんなふうに私と関わっている。
向こうの川には向こうの川の道程がある。
流れ着くのは反対の海かもしれない。
でも、海だ。水だ。
同じ、水。

虫に会いたくなった。
この考えを話してみたい、あの虫に、きいてほしい。そう思った。
最近、虫とは会えていない。
もしかしたら、とは感じている。
そうであるなら、会えるのは随分と先になるなぁ。

雨が止んで、まだ仄明るい空に一番星が光っている。
やけに広い空だと思ったら、海に出ていた。
彼らとの境目が、昏々と溶けていく。
やがて水は、空へかえる。

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