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意識が散らばっている話
以前のnoteにも少し書いた気がするのだが、「うつくしい」という観念が立ち上がってくるとき、同時に「うつくしくない」という観念も立ち上がってくる。
今回はそのことについて、もう少し書いてみようと思う。
共に掲載した画像を見ていただくとわかりやすい(といいな)と思うのだが、「うつくしい」も「うつくしくない」も同じ「うつくしさ」という線上にある。
それは、その対象には、「うつくしい時もうつくしくない時もある」であったり、「見る人によっては うつくしい/うつくしくない と感じる可能性がある」などといった、流動性にフォーカスした見方だ。「うつくしさ」などの観念には、その揺れ幅があるから感動するのではないだろうか。
そして、「うつくしくない」が必ずしも顕在化しなければいけないというのではなくて、「うつくしくない可能性」「うつくしさの流動性」を秘めていることが重要なように思う。
「争わない」の線上には「争う」もあるように、「愛する」の線上には「愛さない」もあるように、秘めたものが、顕在化しているものに力を与えるのではないかと思うからだ。
もちろん、だからどっちも体験しようと言っているのではない。秘めたいものを顕在化しては意味がないのだ。人の想像力は、顕在化せずに感覚を思うことができる。
……尤も「争う」「騙す」「陥れる」などという選択肢自体がない構造であったなら良かった。
とは思う。
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