何と向き合うか
誰かと向き合うことは大事だ。
けれども、自分と向き合うことも大事だ。
埒があかないときには特に。
(もちろん、攻撃されている状態なら離れることが最優先だと思う。)
埒があかないと感じる他者の中には、埒があかない自分が居る。
世界には自分を通してアクセスしている。
だから、他者というのは「自分を通して見た他者」ということになる。
他の誰かが同じ他者を見ても、自分が見た他者とは違う像を拾うと思う。
拾うものが多い人もいれば少ない人もいて、多ければ良いとも少なければ良いとも言い切れない。
他者から拾うものは、自分(のどこか――長所や短所だけに限らず、わかろうと試みる姿勢の発見やわからないと判断する姿勢の発見など、複雑なものも含む)だから。
それが、「自分を通して他者を見る」ことだと思う。
自分が他者のことを100%わかることはできないし、他者が自分のことを100%わかることもできない。違う物質だから。
でも、(各々の主観にせよ)わかると感じることがある。同じ物質だから。100%は無理だけど、何%かは共有できる。地球に居る(在る)ということだけでも、0%にはならない。
同質さと異質さは、矛盾なく同居し得る。
そんな中で、(日本の人間)社会は一時、一つ一つが同じであることに極端に重きを置いていたように感じる。
その極端さに気づき今度は、一つ一つが異なるということの重要性も取り戻し始めた。
しかし、それが加速して、やがて暴走になってしまっているような件も、少なからず見るようになった。そう感じる。
自分の個別性だけを認めてほしいというのは無理な話だ。皆それぞれ、異質さと同質さを持っている。場合によっては、快く譲ることも、譲ってくれたのだと心に留めることも、大事だと思う。
また、語弊があるかもしれないが、相手と向き合い続ければ争いがなくなる、という考えも一概には肯定できない。自分と向き合えないなら、きっと誰とも向き合えない。わかろうとしないなら、どんなに質問をしてみても、ほぼわかることはない。
(自分と向き合うについては、完全に自分を把握している状態を指すのではなく、都度自分を振り返ることを指す。)
世界は自分(が感受できる物事)だから。
その自分という世界には、どうしたって他者がいる。
自分にはわかり得ない、自分と同質のものが。
他者(/自分)は自分(/他者)に何らかのきっかけをつくることができる。
誰かや何かの、異質さや同質さに触れて、向き合うとき、自分や他者をわかろうとする姿勢(――ほんの欠片ほどだとしても)を失わないでいたい、とか思う。