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文化と住宅

大阪には「文化住宅」というものがある。建物の横手に鉄筋の階段がついている木造二階建てのアパートのことで、多くは「○○文化」という看板が階段を上がりきったところの手すりにかかっている。

モルタルの壁も変色してなんだかどす黒くなっていて、ひびが入っていたり、中にはその一部がはがれ落ちていたり。鉄筋の階段もすっかり錆びてしまって、十年や二十年の古びようではない。昭和のにおいの濃い、といってもわたし自身もよく知らないころの「昭和」がそこにあるような、時間に取り残されたようなたたずまいである。

最初に「文化」という言葉を聞いたのは、高校生の頃、先に大学生になった先輩からの手紙だった。差出人のところに書かれた新しい住所のところに、「○○文化」とあって、最初は大学の施設か何かかと思ったのだ。

手紙の中身に、自分は父親が亡くなって下にきょうだいもいるのに、わがままを言って大阪の大学に進ませてもらったのだから、できるだけ母親に負担をかけないようにしなくてはならない、下宿も考えたが、それより家賃の安い文化住宅に住むことにした、とあった。北向きで日が差さないのだが、自分は昼間はいないから大丈夫だろう、とあった。

下宿より安い「住宅」というのはどんなところだろう、と想像はしてみたが、もうひとつよくわからなかった。北向きだから安いのだろうか。そんなことを考えていたような気がする。やがて――おそらく一年も経たないころ――その先輩の住所が変わり、別の「××文化」という名前になっていた。前の北向きの部屋は日が差さないだけでなく、湿気がひどく、なんでもカビてしまう、押し入れの中もカビがひどく使うこともできない、だから引っ越すことにした、とあった。今度は南向きのところを探した、文化住宅は人気がないので、選び放題だったので、探すのは楽だった、などといったことが書いてあった。

二年になった頃からその先輩も忙しくなったようで、手紙も来なくなった。そのうち、今度はわたしが京都に住むようになり、大阪と京都で何度か会ったりもしたが、次第に疎遠になっていった。だからわたしが「文化住宅」を見たのは、その先輩が住んでいたところではない。

バイトに行くために、ちょうど京阪電車に乗っていたときだった。電車の車窓からその「文化住宅」の看板を見たのだ。そんな古びた木造二階建てのアパートなら、東京にもまだ残っていた。けれどもそれを「文化」と呼ぶのは、大阪独自のセンスではあるまいか。

もしかしたら、そんな木造アパートが「文化的」な時代もあったのかもしれない。三十年、四十年と経って、いまだにその姿を保っているのは、それが「文化的」だった時代があったという何よりの証拠なのかもしれなかった。電車の窓の外を通り過ぎていく「文化住宅」を見ながら、自分が経験したことがない時代にもかかわらず、なんともいえない懐かしさのようなものを感じていたのだった。

さて、それからさらに二十年近くが過ぎて、大阪の住人になってすでに十年以上経った。今住んでいるところの近所にも「文化住宅」がいくつか残っている。ここ数年の間にもずいぶん数が減ってしまったが、ときどき自転車で通る道沿いにも一軒、取り壊されることもなく残っている。

今も残る文化住宅は、古びており、住む人も少ない様子ではあったが、周囲はきちんと掃除され、植木鉢が並んでいたりして、静かな営みが続けられていることが伝わるところが多い。しかし、数年前のその文化住宅は、二階の手すりにパラボラアンテナが林立し、異彩を放っていた。円いグレーのパラボラアンテナと、さびて赤茶けた手すりが妙にアンバランスで、しかもキノコのように、一定の間隔を開けて三つ立っていたのである。

それが、ちょうどワールドカップの時期にパラボラアンテナの理由がわかった。隣り合わせの3軒の玄関や窓に一斉にブラジル国旗がぶら下がったのである。ああ、ブラジルの人がそこに住んでいるのだ、とわかった。ブラジルから来ているから、衛星放送を見る必要があるのだろう。BSでどのくらいブラジルのニュースが流れるのか、わたしはまったく知らなかったけれど、ワールドカップでもやっていない限り、まずは聞くこともない「ブラジル」という国のことを定期的に知るには、衛星放送しか手段がないのかもしれなかった。そしてワールドカップが開催されている今、パラボラアンテナはブラジルチームの雄姿を、故郷から遠く離れた人にも伝えているのだろう。

以来、その「文化」はわたしにとって「ブラジル文化住宅」となった。

つい先日、久しぶりにその文化住宅の前を自転車で通った。パラボラアンテナは一斉に姿を消していた。そういえば、とこの地区にあった工場が閉鎖されたニュースを思い出した。その人たちは、工場で働いていた人だったのだろう。

ブラジル人の借り手を失った「文化住宅」は、すっかりひとけがなくなり、わびしげにうずくまっているようだった。


画像:"Between 文化住宅" by m-louis.® is licensed underCC BY-SA 4.0


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