「そういうものが わたしにとってどれほど欲しかったものか 想像がつく?」
思えば、子どものころから「お前は変わっている」と言われ続けた人生だった。そのたびに(そんなことないのに)と憤ったり、不安に思ったり、不思議に思ったりしていたけれど、どうやらわたしは「普通」ではないのかもしれないぞ、と齢26にして気づいてしまった。
別になにか天命を受けるような出来事があったわけではない。イメージでいえば、体内に取り込んだ花粉の量がボーダーラインを超えて花粉症を発症してしまう、と同じで、「変わっている」と言われ続けて「変わっているのかもしれない」と認知したのだと思う。
わたしは少し変わったところがあるのだ、普通では、マジョリティではないのだ、と腹落ちしたところで、なにか大きく変わったことはない。例えば、障害者手帳を取得して得られる手当があるとか、ヘルプマークで周囲が配慮するとか、そういう周りからのアプローチが変わることはなにもないのだ。
だけど、わたしの「普通」とみんなの「普通」がずれていて、なんでこうやらないの?と言われてしまったときに、(なんであなたはこうやらないの?)と思わずに、(ああ、またわたしがずれていたのかもしれない)と思うようになった。
これは一つの処世術なのかもしれない。たまたまGW中に拝読した、きなこさんの短編小説に、こんなセリフがあってハッとした。
悟ることで、切れるスタートラインがあるのだと思う。これは、わたしがいたく気に入っている、「違国日記」の槇生も同じ道を通ったのかもしれないと思った。そうでなければ、槇生はあんな表情で、こんなことをいうことはできないのではないか。
だけど、こうやって少しずつ、実のところ心の奥底では手に入れたかったものを諦めたあと、頑張ってもなれない「普通」の人から責められる「どうして普通ではないのか」に対して、怒鳴り散らかしたくなることがある。
そうやって自分の在り方を押し付けてくるあなたに、わたしが押し殺してやっている怒りは、どうなるんだよ。
なぜ、わたしが怒りを露わにすることに対して、怒りの表情を見せるのだろう。あなたが受け取ることを拒否したあなたに対する怒りは、本当にあなたが受け取る必要のないものか。
「普通ではない」を受け入れた私がこれから戦うかもしれないものは、「普通になれない自分と『普通』」のギャップではなく、「普通ではない人たちと、普通の人たち」のギャップかもしれない。しんどいな~
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