中学英語にhateが存在しない理由について
「嫌いって英語でなんていうか知ってる?ヘイトっていうんだよ?」
当時同じ学習塾に通っていた、中学生の頃の私の「友達」が、私に対し懇切丁寧に「嫌い」の意思を指し示す「hate」という言葉を説明してくれたのは、私が嫌いだったからだろうか?
それでも当時私は「hate」というシンプルな感情を指し示し表現できる新しい言葉を知ってうきうきしていたと思う。
I like tennis
I like curry
I like playing game
か、
I don,t like eating sushi
I don,t like drawing
I don,t like study
そんな、「like」によってのみ語られる世界、「好きではない」というオブラートで間接的な表現を「hate」に書き換えるだけで、「嫌い」にする事が出来る。
文字通り、世界が広がった気がしていた、当時。
けれども、何年度の高校入試だったかは忘れてしまったけれど、自己紹介を英語で記載する文章問題に取り組む機会があって、そこで問題が発生した。多分私立の問題。
色々書き散らかした末に、文末に
「I hate eating sushi」
と書いた。本当はきゅうりが一番嫌いだったのだけれど、きゅうりのスペルを当時、…実は今も私は知らないから、すしと当時記載していた。
友達から教わった「hate」を実践できた事に対し、俄かに満足感を覚えつつ帰宅しようとしていた私を呼び止めたのは、当時私が通っていた学習塾の、眼鏡をかけた短髪の、英語担当の先生だった。
「ちょっと、○○、こっち来い」
きついセリフに対し、やわらかい口調。
「ここさ、「アイ、ヘイト、イーティング、スシ」って書いてんだけどさ、意味わかってる?」
指で字面指し示しながら少しだけ、厳しい口調になる。
俄かに焦った私は、
「「私は寿司が嫌いです」って書いてますね」
と、シンプルな返しをした。次いで「何か間違ってますか?」と、
「いやさ」
塾の先生が口元に手をあてがう。
「いやさ、ヘイトってさ、マイナスの表現じゃん?嫌いって、普通良くないでしょ?学校で教えてもらったの?こういうの、テストとかで書くの良くないと思うんだけどなぁ」
当時私は、先生が言った言葉の意味が理解できなかった。
「うーん、学校でこういうの教えてもらう訳ないと思うんだけど、誰に教えてもらったの?」
耳と口の間を脳みそが介入していないのではないかと疑うレベルで素直だった私はその時「友達」の名前を先生に吐き、帰宅した。
ヘイト、嫌い。
「マイナスの表現だから、使うな」、そんな言葉を10余年ぶりに思い返す契機となった出来事…というか原因は、これまで接してもらった何人かのカウンセラーさんの約過半数が、私と接し続けると
「もう嫌だこいつ、うぜぇ、面倒くさい」
という様相になってしまい、俄かに疲労感が顔に見られる様になる理由を独り考え続けていた末に、思い浮かんだからだ。
カウンセラーに会い続けてる人の大多数は、偏見を承知で言うと、「肯定される事に気持ちよさを感じている狂人」と、「ほんとうに自己否定の念が頭の中に渦巻いている病人」の、2者に分類されると思う。
私はそのハイブリット「凡人」だから、3者という事になるのだろうか。
「自己否定の念」否定。自分が嫌い「ヘイト」。
延々と頭の中で働き続ける自分を否定するループが自分の気分を落ち込ませて、病ませているのだから、もしかすると「ヘイト」という感情自体、先生が言う様に、病んでいる状態を負とするのなら、負なのだろう。
カウンセラーさんの仕事は私の経験則だと、どうやら「負」の感情を「0」ないし「+」に書き換える事らしい。認知行動療法やナラティブセラピーと呼ばれるそのプロセスは、私達が唯一過去にアプローチする事の出来る要素、解釈に働きかけるものだ。
そう、過去に悩む私達が唯一書き換えられるのは事実ではなく、解釈。
逆に云えば、解釈を書き換えられなかったら何も変えられないとう事らしい。民間心理療法上。
解釈が何も変わらないという事は、病み続けるという事だ。
病んでいる人の思考は、工場みたいなものだと思う。あらゆる現実が、否定製造機に向けて、ベルトコンベアに運ばれていく。超システマティック。工場への入り口は、搬入口しかない。
つまり視野狭窄で、短絡的な思考に陥っているというわけではあって、
カウンセラー様の仕事は柔軟で寛大の精神の元、そんな暗黒深淵化した常闇な思考回路に生物的な混沌を…、まあ自然の様相に返すという事で‥。
だけど、病んでいる人のベルトコンベアは、病んでいる人が望んで組み上げているモノでもあるという説もある。うつ病は、ある種の防衛反応であるという話だ。
つまりだから、何をしても無駄な時期はあるし、人は根本的に、何をしても、変わらない人は変わらない。好き嫌いの感情が、書き換え可能な次元のものではない様に、どうしようもない部分はあるという話だ。
嫌いという感覚それ自体が負の感情であるという事は、根本的には揺るがない事実であるという話である分けだ。
だから、話をしていて、「嫌い」か「エゴ」しか発さない私は、誰かにとって、負の存在となる。
つまり、カウンセラーにとって私は負の現況なのである。
だから私は、カウンセラーに嫌われる。
彼らのニーズを満たせないし、満たそうと思えないから。
ヘイトという感情が中学校で教えられないのはそんな、社会が嫌いな要素を、子供の内はせめて感じさせずにおいてあげたいという社会の、稀に見る優しさからなのだろうか。
※あけましておめでとうございます。
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