純朴の狂気

※2020年12月掲載


「笑う、鬼だ。」

蜷川実花監督作品、「さくらん」のワンシーンにて発された台詞だ。

「さくらん」は武士が社会を統治している、動乱の時を乗り越えたくらいの時代が背景の、風俗店が立ち並ぶ歓楽街、所謂「吉原」が舞台であり、その中でも特に高級な店、花魁道中をするような、超高級風俗店で生きる事となった、一人の花魁の半生を描いた物語である。

主人公きよ葉は、凡そ8歳くらいの頃に両親に捨てられ、吉原のある店に拾われる。面倒を見る代わりにやがては花魁として働く事を店主から宿命づけられ、そんな自身の運命に反発しながら、きよ葉は幼少期を吉原で過ごした。

花魁に囲まれた世界の中で成長した主人公は、店でも1、2の人気を誇る人気花魁となり、何人もの金持ちを相手取ったが、ある日の宴会の席で、客の一人である問屋の息子、惣次郎とお互い恋に落ちる。

恋に落ちたきよ葉は徐々に仕事に身が入らなくなり、仕事を休む日も増えた。上客を多数抱えていた主人公の不在は店の売り上げにも影響が合った事から、店での立場も危ぶまれるようになる。

ある日、主人公のきよ葉は店の中でもかなり(金づるとして)重要な人物である大名の相手をしていたが、主人公はその席を離れている間に、店にいた惣次郎と事をなし、さらにはその場面を大名に目撃されてしまう。

大名の逆鱗を買いながらも、やがては惣次郎と結ばれ、店を出ていく事を想像していたのであろうか、きよ葉は毅然とした態度でその場にいたが、惣次郎はその場で、唯々同様し、狼狽し、俯き、振り返り、その場を後にする所を目にすると主人公は、気づくと肩で息をしていた。

惣次郎が店に来なくなって数週間後?惣次郎は歓楽街の多くの女性と関係を持っていた事をきよ葉は知るが、それでもお互いに好意を寄せあったものとして、あきらめきれなかった主人公は「彼に一目会おう」と、惣次郎の家のまで赴く。ちょうど彼は家を出る所できよ葉は家に着く。雨が降りしきる中、傘をさした惣次郎はふと、ずぶ濡れのきよ葉の方へ視線を向ける。

惣次郎は、きよ葉の姿を視界に収めると、「心底会えて嬉しい」‥と、そんな笑顔を浮かべた。

その時発されたきよ葉のセリフが

「笑う、鬼だ」






主人公きよ葉にとって恋とは、結婚とは、花魁として生きる事をほぼ生まれながらにして背負わされた、逃げ場のない鬱屈した日常を忘れさせる、歓楽街には無い、外の世界の幻想的で逃避的、幸せな、新しい物語へ続くプロローグ的なモノであり、幼い頃から押し付けられてきた花魁としての自分ではない、本来の自分を感じさせてくれる存在を見付ける事でもあったのではないか。

だから主人公にとって恋とは、自分が相手の事を好きである事以上に、花魁としてではない自分を見てくれ、歓楽街とは別の、どこか遠い世界に連れ出してくれる様な存在である事を、要求する事でもあった。

しかしながら一方惣次郎は、問屋の息子という、善良極まりない、日常を謳歌する、1人の男。生まれた時から定められたその運命は疑問を抱く余地のない、半ば常識的なモノで、金銭的に特に不自由もなく、その役割を全うしていれば悩みもない、そんな生活。

だから彼にとって恋とは、意味を介さずに行われる偶発的な、シンプルな性欲の発露でもあるとも云えた。つまりそれは、その恋は、瞬間的な感情の高ぶりであるともいえる。

だから、惣次郎がきよ葉と関わった結果陥った、それがどれほど危うい状態に陥ったかを知っている筈であった、その決定的場面に立ち会った惣次郎がきよ葉と再開して、その顔に屈託のない、混じりけのない、「心底会えて嬉しい」という表情を浮かべたという場面はある種、惣次郎がそこまで他人の環境を考慮する事の出来ない、ある種自閉的な、世界とそれに対する自らの反射的感情だけが漂い続けている人物であると決定づける局面であり、さらには、きよ葉にとってそれは単なる失恋に留まらない、惣次郎が、自分を救ってくれる様な理想の存在ではないと、それどころか、自分の身を案じてくれすらしない存在であると理解する、決定的な場面なのである。

惣次郎にとって恋とは、数多の店で女が待っているという噂が象徴する様に「唯の性欲のはけ口」あるいは、「好き」という自身の感情に溺れる事であった。それが、きよ葉にとってはより一層の意味を含み、自身の事を一切見ていない、気にしていない畜生であると結論づけた。
そうして生まれたセリフが

「笑う、鬼だ」


「笑う鬼」が見ているもの

※極端な考え方をしています。

※文脈が次第に崩壊していきます。既に崩壊している事は否めません。

子供は残酷と良く云う。

それは、社会を生きる中で必死に心に纏わせてきたプライドの中身を、意図せずあっけなく言い当ててしまうからだ。


人と接し、社会や、他者と関係性を築いていく中で、相手が不快に感じるかもしれない表現の境界線を感じ取る能力、社交性。それはある意味、純粋さを社会に適応させる為の「言い回し」等に代表される調味料で、脱色だ。純粋さは生の野菜みたいなもので、栄養満点で、正しい在り方なのだけども、そのまま口にすると、私達にとって青臭くて、苦々しい。「笑う鬼」とはつまり、そういう事を言いたいのではないか。


「笑う鬼」は人間に害を成す鬼ではあるけれど、罪ではない。子供の存在が罪ではない様に。さくらんの主人公が、自分と会ってシンプルに喜びを表現した笑顔(あるいは動揺しすぎて生み出された表情のエラー)を向けてきた惣次郎に対し「笑う鬼」と感じたのは、心のどこかで恋とは「自分の事を推し量ってくれるもの」と考えていたからで、彼女にとって、シンプルに自分と出会えたことに対する喜びに満ちた彼の笑顔は「心底哀れな状況に陥った自分」を救い出す事に何ら興味もない、唯自分の恋の欲求を晴らすためにしか自分を見ていない、という意味合いにおいて畜生として映ってしまったからであった。

彼と関係を持ったせいで主人公の立場が危うくなっている事の責任を問わなければ、惣次郎に何ら罪はない。その責任を問う人も、きよ葉以外にはいない。唯、きよ葉にとってだけ、惣次郎は鬼として映った。

純朴さは罪ではないけれど、内面に何等かの欠落を抱えていて、自分を見て欲しい、心配してほしい、胸の虚空を埋めて欲しいという欲求を抱いている人にとっては、空虚の原動力「無関心」を感じさせる罪のある畜生、という事であるのかもしれない。


‥「笑う鬼」は「嫌われる勇気」的に云えば、「課題の分離」を体現した、極めて心の知能指数が高い人物という事になもる。相手と自分に正しい境界線を設けられているという意味でだ。

「笑う鬼」は,基本的には私たちは、他者を通じて自分の感情を眺めている。だから、そこにモラルなんてものは介入しなくて、「喜び」や「悲しみ」と云った、テクストの無い、社会性以前の原始的な感覚が私達の世界をカタチ造っている。

逆に、「笑う鬼」と対義的存在と云える、「社会的な人間」が何を見ているのかと云えば、「意味上の自己」を見ていると私は思う。相手にとって自分はどういう存在か。相手は自分にとってどういう存在か。社会の中でどういう存在か?言葉でとにかく、人を組み立て、理解し、利害を判断し、好き嫌いの判定をする。というよりかは、好き嫌いの理由を言葉で説明しようとする、利害でものを云う、一般化し、共有しようと試みる、極めて社会的な存在だ。

そう思うと、笑う鬼というものは名前のわりに罪のない、純朴な存在であるとはいえる。意図せず人を傷つける場面があるにしろ。

そこでふと思う。

この現代社会、ツイッターやインスタグラム含め、数多のSNSが蔓延するこの社会、学校でスクールカーストを経験し、とにかく、社会に優位な立場を得て安心し、ひたすら相手を見下して空虚を埋め合わせる現代社会において、社会を経験した者の中に、純粋な「笑う鬼」なんてモノは存在するのだろうか?

「笑う鬼」の求めるモノ

※自己肯定感です。

純粋。ピュア。

それは、自分が真っ白で気持ちの良い、汚れの無い、きれいな存在である事を表現する言葉で、その言葉が似合う人間であるという事は、自分が罪のない、肯定された存在である事を感じさせてくれる、気持ちの良い言葉だ。

兄弟愛、家族愛、子供時代の思い出、ささやかさを感じさせる何か。

‥余り思い浮かばなかったが、とにかく、否定しようのないもの、社会的に肯定しかされないモノを肯定すれば、私達はそういう価値観をもった、純白な存在になれる。一時の間自分は純白な存在だと思える。

実際それが好きならそういう存在なのかもしれない。



本当にそうだろうか?



社会を知っている私達は全員、1人漏れなく、醜い側面を必ずどこかに持っている、筈だ。それは何か醜い事をしているとかではなく、誰かの不幸を無意識に笑ってしまったり、いじめを見て見ぬふりをしたり、不可抗力で相手のメンタルを傷つけてしまったり、それ以前に、相手の空虚を触発する様な要素を持っていれば否応なく、ふとした時に、私達は相手にとって、心底醜い存在として映っているし、醜いと言われる行為を自覚なくしている、時がある。

そうでなくとも私達の幾人かは、自分を肯定する為に、自分の中にある純粋な自分のイメージに自分を近づける為に、意図的に人を傷つける言葉を吐いて、自分を肯定して喜ぶ、確かに唯の畜生になる人もいて、醜い自分は必ず私達が生きていく何処かの段階で作り上げられて、さい悩まされる事になる。

「あの人、性格悪いよねー」

逆説的に自分の性格を肯定している。

「お前、センスねーよ」

逆説的に自分のセンスを肯定している。

「この建築は、ファッションだね」

自分の建築がファッションである事を否定している。

そうして生まれる、相対的に肯定され、否定される存在たち。

人を意図的に傷つける言葉を吐く人達は、誰もが知る様に、言葉を向けた人達と自分が別の存在である事を、自分と相手に言い聞かせている。

彼らは、自分の醜さを他者に描き出して、分離して、自分を純朴な存在にしたて挙げている。

社会の中の「笑う鬼」

※社会はヒエラルキーで出来ている。一人一人が対等に接する社会を掲げていいのは上の立場の人だけで、下の立場の人が対等な立場を意識接したら、普通失礼にあたる、そんな当たり前な社会の常識を、私は最近、再認識しました。


純朴である事はもちろん良い事。健康的だし、自己肯定感高い人って、そういうものなんだろう。それに人は、悪意にさらされなければみんな、人が目の前にいなければ、社会が無ければ、純朴だ。

笑いには、良い効果がある。体内の発がん性物質を殺す、ナチュラルキラー細胞を活性化させ、ストレスを抑制するセロトニンを分泌する。いい事づくし。

そんな笑いは、純朴さの象徴だろう。

そんな笑いは多くの場合、「安心」や「勝利」と云った要素によって引きおこされている。自分より劣る存在がいる安心、何かより上の存在になれた勝利の感覚、何かを無事終わらせることが出来た安心感。

もちろん、自分はあなたに好意的な感情を抱いているという意思を伝える為の、デザインスマイルもある。

何が言いたいかと云うと、所属感以外の感覚によってもたらされる笑顔の多くは、自分の何かを見下す事によって生まれているという事である。


人が笑う時目を細める理由は、その感情を味わう為に、外界の情報を一旦遮断する事が望まれると、脳が判断しているからとも云われている。

幸せを感じた段階で、時を止め、少しでもその幸福を傍受する為の、条件反射。

相手からしても笑っている間の人間の目が見えない以上本音をうかがい知る事も出来ず、コミュニケーションが熟達した自分を意識している人なんかは、盛大相手に対しマウンティングをした後に相手に笑顔を向ける事で、マウンティング的発言を笑顔という好意の仮面で覆い隠しつつ、目を細め拒絶を示し、実はその笑顔は相手を見下したものであるという事を相手が想像している事をイメージし、勝ち誇り、さらに笑う、という、ありきたりな、延々と気持ちよくなるマスターベーションのサイクルを公衆の場で行う。

私達の多くは、競争社会が生み出した化物だ。

延々と自分を肯定する根拠を探し続ける、化物だ。

他の人より優れた存在であるために、ファッション異性、子供、仕事、表現、ありとあらゆす媒体を用いて自分を着飾るマネキンだ。

世の中の人間の大多数は、鬼だ。

純粋戦争

※私の被害妄想はどんどん加速していきます。

競争、闘争。それは、人間が誕生する以前から存在する、生命にとって根源的な営みで、使い古された、根源的な人間のテーマだ。

戦争とまではいかなくとも、容姿や血筋、社会的ステータスや能力等、社会的な人間を図る尺度の、出来るだけ多くの分野で他人より優れてある事で、成長過程のどこかで得た空虚感を補おうとする為の競争を、私達は日夜行っている。

純朴さも、その尺度のひとつだ。

私達が、その幾人かが純朴さを認めるのは、好きな人と、子供だけで、それ以外の人間は基本的に打算的で下劣、という認識が心のどこかにある。そうやって自分達が属するコミュニティを肯定している。そうならないと生きていけないくらい、社会の中で私達は否定される。

私達が内面に植え付けられた、自分は醜い存在だ、という被害者意識を取り除く術を上手い事見つけられず、延々とその疑問にさい悩まされ続けると、純朴そうな存在を、罪の意識のない、自分を純粋だと思っている存在を許せなくなる。

「私は正しい存在であるはずなのに、あの人がいると、まるで間違っている様に感じる」

何とかして自分が醜い存在であるという自意識を、植え付けさせたくなる、そうと誰にも気づかれない様に。

そうして、他人を醜い存在として扱う事で、少しでも自分を、誰かよりはきれいな存在だと肯定する。閉鎖的な妄想世界で、悠遊と羽根を伸ばして、私達はきれいな海で泳ぎ、清め続ける。

そうして延々と生まれ続ける、醜いアヒルの子。

本当に純粋な存在なんて、現代社会に存在するのだろうか?という疑問を誰かが問うたとする。

その答えは多分、存在はするけど、全員死んでいる。

おまけ:「笑う鬼」

私は外に出たくない。

家族、両親を見たくない。

私の如何にもみすぼらしい佇まいは不幸を象徴しているから、整合性なんて存在するわけもないマウンティングの対象として、誰かの優越感を触発するだけの根拠として理想的らしいから、何だか笑われている気がする。

私と同い年位の若い夫婦が笑顔なのは、私がいかにも不幸そうな人生を歩んでいる雰囲気を醸し出していて、自分たちはなんて幸せな人生を歩んでいるんだろうと、悦に浸っているからで、

子連れの父親がこちらをじっと見てくるのは、自分の問題なんかより子供と向き合っている自分という、いかにもきれいそうな生活を送っているという自分に、劣等感を感じてほしいからで、

みんな、自分の幸せの為のいけにえを求めている。


私は誰かに幸せをもたらす存在。

誰かを笑わせる存在。

鬼を。



そして私は誰にも責められないここで笑う‥鬼。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?