HSPについて

※この文章は、精根がひん曲がっている人が書いています。なので、読み進めていく内に論理、文脈が破綻し、先入観と憶測で話が進んでいく事があり、不快な描写もありえます。この文を読んで気分を害したら、その責任はこの文にあり、あなたには一切の責任はありませんし、この文に正当性はまったくありません。むしろ破綻しています。

※下劣な内容です。

※散文です。

※答えはありません。

冒頭

HSPについて、私はよく知らない。

一先ず、他人の感情を細かい所作から読み解こうとする気質があって、物思いに沈みやすい,一言でまとめると感受性が豊か、という事として、この記事では扱う。

所で、何故HSPという言葉は流行ったのだろう。流行ったという事は、HSPという傾向に心当たりのある人達が、日本には大勢いたからなのだろう。

ちなみに、私がHSPという名前を知ったのは、大体1年前、心理学系エンタメサイトで記事が立ちあがっていて、それを読んだからで、話題になっていると感じたのは、書店の、心理系統ではなく、ビジネスライクな本棚にHSPの本が幾つか並んでいて、テレビで話題のカウンセラーが、クライアントに「HSPですね」と笑顔で告げて、クライアントは「うんうん」という風にうなずいているシーンが放映されていたからだ。

HSPが流行った理由を考える(時代背景)

HSPは何故流行ったのだろう。その背景を考える。ここからは、たちが悪くて性格がひん曲がった私の偏見で話をすすめていきたいと思う。

人はだれしも内心、自分は特別、少なくとも、他の誰かよりも特別だと思っている。その価値観が最も培われるのは当然、学校で、スクールカーストと呼ばれる、自分が属するコミュニティで、クラス内での格が決まる、あれである。

そもそも、スクールカーストが生まれる理由は、恐らく、人間関係の諸問題は、元々は問題を引き起こしている相手と同性の肉親との関係にそもそも問題がある様に、恐らく、両親との関係性がそういった‥対話ではなく、序列的な関係性である事に、起因するのではないか。

そして、その時期に構築された、私の、私達の価値を肯定してくれる価値観は、多くの場合その後延々と付き纏う。

同じ様に、自分の価値を貶められれば、その社会から抹殺される事を学ぶ。

勉強が得意な子で、特別な扱われ方をされたのなら、彼は博識であろうとするし、音楽が自分を肯定するものだったら、彼はミュージシャンないし、作曲家、熱心なファンになるであろうし、スポーツなら、肉体的に優れた存在であろうとするだろうし。

そうでなくとも、社会を自分で読み解いた際、社会的に、個人的にと問わず、最も自分を肯定してくれる価値観で、私達は自分を特別であらせようとする。

別に悪い事ではないし、偉大な仕事はそうやって生まれるのだろうけど。

私達の「特別」像は、小さくなった世界でやたらと出会う、表現の世界のスーパースターの優れた表現作品はで、私達の感性が求めるモノを優れた形で代弁してくれているから、私達の感性のすばらしさは、いつもどこかで確かめる事が出来る。

「自分が感じている感情が、みんなから特別なモノとして扱われている!」

(ライブは、とてもいい空間だ。みんなと、自分が特別だと思っている事を共有できる。私達の、社会の中ですり潰される感性を、否定する理性は存在しない。)

道行く主婦の会話の多くの主題は、話の内容ではなく、相手の中で自分の存在を大きくするという目的にある様に思える。

「たまねぎが安くてねー」

「ねー」

文面からはだから何だとしか思えないこの会話、しかしながら、やたらと大きい「ねー」は、相手の注意を会話から、自分に引き戻そうとしている様に思えるし、自分の感性の正当性を相手に突き付けけて、時には相手を否定して、相対的に、自分の価値を向上しようとしているように、思える。

自分の価値の向上という面だけでみれば、主婦だけに限らず、どの世代の会話でも、マウンティングという形で、よく見られる。

好きな話をしている人と、自分の事を馬鹿にしてくる人の表情は、喜びに満ち溢れているという点で、よく似ている。違うのは、その視線が自分に向いているのか、想像の世界に向いているのかという事だ。

だから、私達が自分を肯定する方法は、一先ず2択ある事になる。

自分の感性に共感してくれる存在と、共存する。共同体的感覚

相手をこけおろして、自分の価値を高める。マウンティング、承認欲求

どちらにしろ、私達の心は、自分に価値を与えたい。

HSPが流行った理由を考える

さて、この世の中において、共同体的感覚を養うのと、マウンティングで相手をこけ下ろすの、どっちが簡単だろう。

何故、インスタグラムで、人々は幸せな風景を、いかにも幸せな風景として表現するのだろう。

何故、日本全国精神科医に出合うには、平均1っか月半以上も待たなくちゃならないんだろう。

何故、どんなコミュニティにもヒエラルキーが存在するのだろう。

共同体はどこにでもある。その多くは似通った価値観で居場所を作られたかを機能させる為であったり、自分達の価値観を肯定する為にある。

その共同体を肯定する価値観は、「社会的な幸福」であり、「優れた専門性」であり、その事実を、幻想から乖離する為に、マウンティングという形をもって、共同体と現実と結びつける。

だから、人間として生きる以上ヒエラルキーから逃げられないし、絶対にマウンティング的な要素を伴う何かと私達は延々死ぬまで付き合わなくちゃならない。

もし、自分を肯定する価値観が共同体の中で見出せなかったら?

もし、マウンティングを心の中ですらとれない、従順な性格だったら?

その被害者の会、「インナーチャイルドに出合うには」で作者が嬉しそうに記述したであろう、「競争社会の敗者」たる私や、私達を、社会的に比較する事なく肯定してくれる、数値に現われない概念、それが超大規模コミュニティ、HSPなのではないか?

成程、基準はよく分からないけど、人より感性が優れていると言われて、悪い気はしない。社会的に自分が上手くいかない理由を、感性に責任転嫁出来る。

少なくとも気楽に生きる、糧になる。

HSPとそうでない人の差異

私たちの多くははボルトの様に速く走れないし、オペラ歌手の様に壮大な声を出せなければ、テニスで265キロのサーブを打てないし、投げたボールのスピードが、165キロも記録する事はない。ラフマニノフみたいに絶頂を語れないし、米津みたいに新しい音を生み出す事も出来なければ、村田さやかみたいに奇天烈な世界を描けないし、ザハハディトみたいないかれた建築も生み出せなければ、ピカソみたいにキュビズムなんて思いつかないし、描けない、そうでなくとも、私が知らない、世界が知らない、偉大な創作物、世の中のプロが手にした技術の大半、ほぼ全てを、私達は身に着ける事なく死ぬのだろう。

それは肉体的な問題でもあるし、技術的な問題でもある。唯、見ているものは同じな筈だ。感じていることの精度が、私達と段違いなだけで。

ありきたりだが、私達はみんな違って、みんな個性がある。

なら、所で、HSPとそうでない人の差異は1体どこで生まれるのだろう。自閉症の様に、生まれ持って身に着けた個性なのだろうか?

16パーソナリティや、エニアグラム診断、それらは私達の先天、後天、あるいは総体的な人格を表しているのかはよく分からない、だが、そこにHSP的要素が記載されている人格特性は、多くて3種位だったと思う。そう思うと5人から10人にHSPという唄い文句と、心理テスト双方に、妙な信頼感を覚える。

所で、HSP以外の人達は、繊細ではないのだろうか?

そもそも、生まれながらにして感じ方の差異はあれど、生き方が環境によって左右されるのであれば、性格特性とは、単に学校等で身に着けた処世術を客観的に言い表したもので、だとしたら、HSPも生まれながらの人格特性なのではなくて、生きていく内にそうならざる得なかった、処世術なのではないだろうか。

モノ言わぬ子羊という表現が適切かどうかは定かではないが、そういう子を育てたければ、その子の意思をくみ取らず、云う事を聞かせ続ければ良い。そうすればその子は、外と接点を持たなければ、自分の感情を自分の中で押し留めて、1人悩み続ける存在になるから。

対人的な感受性が豊かな子にしたければ、教育的な親がそうであるように、自分で考えさせる癖をつけさせればいい。例えば、訳もなく、子供をしかりつける。そうすれば子供は、両親に叱られる体験をしない為に、自分達の思いを推し量り、思考錯誤する様になる。

ただ単に、理想的な養育に逆行する事をすればいい。あなたに対してだれかがそうした様に。きっとみんな、そういう経験がある。

HSPと、自己肯定感は、とても密接な関係をもっていると思う。自分を肯定できないから、その根拠を見つけ出すために、自分の生ならぬ性に実感を見出すために、あらゆる事に溺れてゆく。その依存対象が、感情や思考であるだけなのかもしれない、HSPは。

自己肯定感、でなくとも、別に、誰かに対してマウンティング出来る何かがあれば、少なからず、HSP気質は良くなるんじゃないだろうか。

少なくとも、HSPの統合失調症の過度期的な症状は休まるんじゃないだろうか。というか、悩まなくなるんじゃないだろうか。

インスタやツイッター、オンラインゲームに私の様に溺れる経験のある人は、頭の中を誰かから見た自分で埋め尽くしている。

5人に一人のHSPという割合は、5人のうちの何人が、インターネットを用いた人とのつながりに依存しているかという割合と、どれくらい近しいのだろう。

そもそも、HSPという概念を意識してしまうのは、少なからず私達が内面にに悩まされているからであって、もし、多少なりともそういう側面を抱え手入れも、それで幸福なら、そういう本を手に取るだろか?

承認欲求を、私達の多くは欲している。

正直いって、相手にマウンティングをとって傷付いたという反応をみて、あるいは、勝手に思い込んで、悦に浸っている人間に、HSPの側面が全くないわけがないと私は思う。むしろ、他人の感情を感じ取って、楽しんでいる。

だとしらら、大抵の人はHSPで、唯、マウンティングで頭を満たして自分を肯定し続けられる気ちがいじみた狂人と、その被害者がいて、単に、やっぱり、冒頭と同じく、その被害者的側面を帯びた、そういう立場に追いやられるライフスタイルを身に着けてしまった一団を、私達はHSPと呼んでいるのかもしれない。

ただたんに感じている事に悩んでいるか、そうでないか、マインドフル、ならずとも、マウンティングで自分を肯定出来ているか、出来ていないか、その差異を、HSPは被害者側を肯定する形で、存在しているだけに、やっぱり過ぎないのかもしれない。




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