違い


早めに死ねたら人生勝ちだなと思う時は
大体泣いているけれども
その涙は
早く死にたい気持ちと
早く死にたいと思ってしまっている自分への涙であって、その2つの感情が両極端すぎる事に気がつき
笑えてくる時もある。

悲しいと哀しいが違う様に
生きたくないと死にたいも違う。

死にたい時は大体が消えたい感情で
生きたくない時は大体が不安な感情

死にたいな〜は、自分が犯したミスがあった時
生きたくないな〜は、他者から攻撃を受けた時

自分が他者に迷惑をかけたり
やるべきことができていなかったり
自分の理想の自分になりきれていなかった時に
死にたいと思う。

なんでかは分からないけれども
自分に対して相手が急に冷たくなった時
何か不安なことがあって常に
プレッシャーを感じている時
自分の思考が、他者や他の物事に圧迫されていると感じた時に、こんな状態で生きていくくらいなら
もう生きたくないな〜と思う。
自分の人生を生きれないくらいなら生きたくないという気持ち。

この違いが分かる。
私には分かる。

人との会話の中で
言葉ではうまく伝えられない時に
チグハグな単語と例え話を繋げながら
ニュアンスでそれを表現した時に
それが
伝わる人と伝わらない人がいる。

「うんうん。分かるよ。あれね。あるよね。」
の人は、明確には伝わっていないけれども
その場の空気を読んで適当に合わせてくれている人
(又は、人の気持ちを正確に理解する事は不可能である事に気がついていて、人の気持ちに深入りしない様にあまり興味を持たない様に生きている少し冷めている人)

「分かるの。あれでしょ?(同じ様なニュアンスの例え話をしてくれる)違う?こういうことではない?」みたいなのは割と理解してくれ様としていてそれを伝えてくれる人

「ん?どゆこと?全然分かんねえよ(笑)そんな時ないし、言ってることの意味が分からない(笑)」
これはまじで伝わってない人だしこれから先も伝わらない人又はただの愛くるしい理解力の低い馬鹿

これの違いは完全に感受性と経験値の問題

何事においても少しの違いに気がつける人は確実に感受性が強いし豊かであると思う。

特に匂いや音に敏感な人はかなりその傾向がある。鬱やHSP、ADHDなど
精神障害のある人は感覚過敏になりやすい。

人は1人ずつ全く異なる。
その中で多くのストレスや外的刺激を受け
自分を守りながら保ちながら生きていく。
他者に理解されたいと思う事もある中で
理解されないからこそ理解されたいと思うのだから
この時点でもう理解を求めるという行為自体が理解されていない事にもなる。

輿論(よろん)と世論(せろん)の違いは
「よろん(輿論)」は世間一般の共通意見、「せろん(世論)」は世間のうわさや風評を表す言葉である。

これがニュアンスの違い。
ではなくて、知識の差。

感受性が豊かな人は、そうでない人よりも、日々を生きていく中での些細な出来事から受け取る気持ちや感情についての経験、体験、知識に多大なる労力を費やしている。

ニュアンスの違いが分かる人は
曖昧なものと沢山向き合ってきた人なのだと思う。
白黒つけたくてもつけられない様な
膨大な物事に対して
折り合いをつけながら生きてきた人には
一つの物事を多角的に捉え、考える力が培われ
達観するのだと思う。

曖昧な物事への違いについてアプローチできる人は
とても繊細であるということを伝えたい。
共感力が高い人は何も考えずに頷いているわけではなく、分かってあげたい、分かるよ、という気持ちを込めているということ。
言葉にならない思いを理解されない寂しさを知っていて、それを理解してあげられる立場でありたいと心から思っているということ。

違うことを許容し、理解できる大人になりたい。



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